創世記16:13
「顧みてくださる神」 田口博之牧師

2023年1月1日の朝を礼拝で始めることの恵みを感謝します。毎年していることですが、新年最初の礼拝では、聖書の言葉によって祝福の挨拶としたいと思います。使徒パウロがコリントの教会の信徒たちに送った第一の手紙に記された冒頭の挨拶です。

「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

イエス・キリストの恵みと平和を心から求めます。昨年の世相を漢字一文字で表すと、「戦」(いくさ)、戦争の「戦」の字が選ばれました。ところが、安心、安全、平安の「安」の字が小差の2位で、最後に逆転されたようです。希望を現実が上回ったということでしょうか。あるいは安の字は暗殺された元首相の安という字でもありますので、これよりもロシアとウクライナとの戦争の印象が強かったということになるのでしょうか。

それにしても、1年前の正月に、「戦」という字が1年の世相を表すに相応しいと考えた人などいなかったように思うのです。今年も何が起こるか分かりません。願わくは、戦争が続くのでなく、終わることを願います。戦争もそしてコロナも続く「続」でなく、終わり「終」の字が選ばれる1年であってほしい。その意味でも、パウロが告げたように「イエス・キリストの恵みが平和あるように」を年頭の切なる祈りとしています。

そんな思いの中、2023年最初の礼拝で聞く聖書の言葉は、創世記16章13節、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」となります。これは、来るべき年を、どんな御言葉で始めたらよいかを思いめぐらしていた時、自分で捜すよりも、「ローズンゲン・日々の聖句」にある2023年の聖句にしようと考えたことによります。その日の礼拝前に「ローズンゲン」を受け取ったので、これを開くと同時に、隣にいた奥村長老に、「これにします」と伝えたのが、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」にしまうと伝えました。

「ローズンゲン」と聞いても、よく知らない方も少なくないと思います。11月の週報に星野富弘さんのカレンダーと共に紹介していたことで承知している方もいるでしょう。少し説明をした方がよかったかもしれません。「ローズンゲン」とは、ドイツの敬虔主義に属するヘルンフート兄弟団が編集した日々の聖句集のことです。すでに300年近い歴史があり、世界の50か国もの言語で翻訳されています。ローズンゲンという言葉自体に「くじ」という意味がありますが、その日のための聖句が「くじびき」によって選ばれ、これに合うふさわしい聖句が新約から選ばれているのです。

日々の聖句のほかに、週の聖句、月の聖句があり、そして年の聖句として、創世記16章13節、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」が選ばれました。このところは、原語のヘブライ語聖書では「アッターאַתָּה ・エールאֵל ・ロイーרֳאִי」とあります。訳せば、「アッター=あなたは、エール=神、ロイー=私を見る」となります。どんな辛くて苦しいことがあったとしても、神様あなただけは、わたしを見ていてくださる、顧みてくださっているということです。

この言葉、「あなたこそエル・ロイ」とは、ハガルという女性の賛美告白です。では、どうやってこの言葉が生まれたのでしょう。聖書のテキストとして、創世記16章13節全体を朗読していただきました。「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである」とあります。

この1節だけでは、「あなたこそエル・ロイです」という信仰告白がなぜ生まれたかは分かりにくいです。そのために創世記16章全体を抑えておきたいと思うのです。

ハガルという女性は、イスラエルの祖であり、信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻サラに仕える女奴隷です。この時点ではアブラハムはアブラム、サラはサライと呼ばれていました。

物語の発端は、アブラムの妻サライの申し出によります。アブラムは、「祝福の源となる」という神の約束受けて旅立ちましたが、それから既に10年が経ち、アブラム85歳、サライ75歳となっていましたが、神が約束を果たしてくださる気配がなかったのです。サライは、このままでは、約束の担い手になれないと考えて、アブラムにこう進言しました。2節後半です。

「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」。即ち、サライは、自分の女奴隷であるハガルによる代理出産を企てたのです。サラにとって女奴隷ハガルは自分のものでしたが、生まれた子も同様に自分のものとされるのです。これは当時、子どもがない家庭にとられる合法的な手段でしたが、あくまでも人間的な知恵によるものであり、神の御心に沿うものではありませんでした。

しかし、神の約束をこれ以上先延ばしにできないと考えたアブラムはサライの提案を受け入れたのです。その結果、ハガルは身ごもります。念願の子どもが授かったのですが、思ったとおりにはなりませんでした。ハガルは、自分が身ごもったことが分かると、サライに対して高慢な態度を取るようになったのです。子を身ごもった者の強みが、二人の立場を逆転させたのです。ここから、ドラマの「大奥」で見るようなドロドロとした戦いが始まります。

女主人であったサライは耐えられなくなり、「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」と、アブラムに不満をぶつけます。ところが、「あなたの奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」と、アブラムは無責任きわまりない答えをします。生まれて来る子の父となる責任を放棄してしまったのです。

すると二人の立場は再び逆転し、サライはハガルに辛く当たりました。自尊心に目覚めたハガルは逃げ出しました。正妻の座を守ることは出来たサライでしたが、ハガルによって跡継ぎを得るという計画は、水の泡となりました。

ハガルが故郷のエジプトとの国境近くのジュルの荒れ野に逃げんだとき、主の御使いがハガルに目を留め、語りかけます。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」と。これは、場所を問うているだけの簡単な問いではありません。神が罪を犯したアダムやカインに問いかけたと同じく、神から人への根源的な問いかけです。

しかしハガルは、「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えるのが精一杯でした。故郷エジプトははるか彼方です。すると御使いは、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と言いました。これだけだと我慢できずに逃げ出したハガルにとっては辛い言葉のように思えます。でもこれは、ハガルを励ます言葉でした。それゆえに御使いは、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束されます。更に「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい」と言います。イシュマエルという名は、12節後半にあるとおり「主があなたの悩みをお聞きになられたから」という意味の言葉です。主なる神が、彼女の悩みと苦しみを、そして叫びを聞いてくださるお方であることがハガルに示されたのです。

やがてハガルから感謝と賛美の言葉が溢れます。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と。先に述べたように「顧みる」とは「見る」です。短い言葉の中に、「あなただけは、わたしを見ていてくださっている」という信仰が告白されています。

これに「それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである」という言葉が続きます。意味が通りにくいですが、「顧みる」とは「見る」とすれば分かるのではないでしょうか。旧約聖書には、神を見たら死んでしまうという記述が何度か出てきます。それほど神と人との間には隔てがあるということですが、ハガルは死ぬことなく見続けることができたのです。

わたしは説教準備の中で、意味が分かりくい聖書の言葉に出会ったときに、5冊ほどの聖書を参考にして訳文比較するのですが、奥の手が「リビングバイブル」です。平易な翻訳をした聖書なのですが、そこでは13節をこう訳しています。

「そののちハガルは、主のことをエル・ロイ(「私を顧みてくださる神」の意)と呼ぶようになりました。彼女の前に現れたのは、実は神ご自身だったのです。『私は神様を見たのに死にもせず、こうして、そのことを人に話すこともできる』と、彼女は言いました。」

どうでしょう、分かりやすいと思います。こうしてハガルは、神の顧みを確信して、女主人のもとに帰っていくことができたのです。

顧みてくださる神との出会いを与えられたとき、わたしたちの心は落ち着きます。他者の視線が気にならなくなります。認めてもらいたいとか、評価されたいという思いから自由でいることができる。神が愛のまなざしをもって見てくださっているのだから、それ以上のことは何もいらないと思えるようになるのです。

ハガルは自分を顧みてくださる神との出会いによって、元の場所に戻って行きました。サライからはきついことを言われたかもしれませんが、そこに踏みとどまる力が与えられたのです。わたしたちの誰もが、過ごしやすい場所で生きているのではありません。みな辛抱しながら生きています。人間関係での苦労があります。健康の不安を抱えています。子育ての悩みをもっています。経済的な不安があります。介護をする側、受ける側の労苦があります。

いったいどうすればいいのか。誰かに相談しても、いい解決が与えられるわけではない。それでも、聞いてくださる人がいれば、支えになる筈です。まして神は、すべてを見てくださっているのです。わたしたちの叫びも聞いてくださいます。ハガルを顧みられた神は、あなたも顧みてくださっているのです。

ローズンゲンの解説にこうありました。「今から数千年前、逃避行の途にあった下働きの女が救われた経験です。今日と同じように、当時も人々は、これこそまさに自分のこと、神は自分の状況を見ておられるという深い確信に満ちた瞬間を体験しているのです」と。

14節に「そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった」とあります。その言葉は「わたしを見てくださり、生きておられる方の井戸」という意味です。ハガルは水を求めてここに来ましたが、ここで水以上のもの、エル・ロイ、自分を見てくださる神と出会ったのです。サマリアの女がイエス様と出会い、永遠の命にいたる水をいただいた場面を思い起こします。

わたしたちにもベエル・ラハイ・ロイがあります。神を礼拝する場がそうです。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と神の名を呼ぶ礼拝。祈りと賛美、御言葉を通して、共に礼拝する方との交わりを通して神と出会い、渇くことのない命の水をいただきます。週の初めの日の礼拝が、一週間の生活を支えます。

新しい年、礼拝を起点とした生活を続けていきたいと思います。ここに帰るとき、神が顧みてくださることを確かめることができます。自分たちがどこから来て、どこに行くのかという人生の道筋のチェックポイントとなります。そうすると迷うことはありません。立ち帰る場所があることが、人生の大きな支えとなるのです。