2022.9.4
詩編34編16~18節 ルカによる福音書18章1~8節
説教 「ひたむきな祈り」 田口博之牧師

信仰生活において「祈り」を欠かすことはできません。信仰者であるならば、祈らねばならないことを知っているはずです。しかし、そのように言われると、祈ることの少ないわたしは信仰者といえるのか、そう思ってしまうかもしれません。そんなわたしたちは、祈れない自分を見つめる時があります。祈れない自分、いや祈らない自分はどこから来るのでしょうか。なぜそうなるのでしょうか。

その理由のひとつに、祈りに手ごたえを感じないということが挙げられると思います。「祈りは呼吸」と言われながらも独り言のように感じてしまう。ウクライナの平和を祈っても、戦争が終わるような様子はない。神様は聞いてくださらないのではないか。祈ったって意味がない、時間の無駄だ。そんなことを思い始めると、祈りから離れた生活に入ってしまいます。

イエス様は、祈りを遠ざけてしまうわたしたちのことをよくご存じです。そのため、しばしば祈りについて教えられました。今日のテキスト、ルカによる福音書の18章1節から8節もそうです。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」そう始まっています。「絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあるのですから、祈りについて教えるという目的をもって語られたのだということができます。

祈りの教えということでは、もう一つ忘れてはならない箇所があります。ルカによる福音書11章です。イエス様が祈っておられる姿を見て、弟子の一人がこう言ったのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」イエス様は、この願いに応えるように「祈るときには、こう言いなさい」と言って教えられたのが「主の祈り」でした。わたしたちが礼拝のたびごとに祈る「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りです。

わたしたちの中で、祈りができない、祈りが難しいと思われる方でも、「主の祈り」は祈れるのではないでしょうか。イエス様が教えてくださった祈り、主の祈りを祈ることができれば、祈れないということはないのです。主の祈りには、わたしたちが祈るべき必要なことのすべてが凝縮されています。礼拝で、皆が祈る「会衆の祈り」の時間がありますが、祈れないと思われた方は、主の祈りを祈ってくださればよい。

では、主の祈りさえ祈ることができれば、わたしたちはほかに祈らなくてもよいのでしょうか。そう問われれば、「それでいいです」と答えることもでません。祈らなくてよいというよりも、祈りが必要な時が来るのです。たとえば愛する人が思いもかけない怪我や病気で入院し、コロナ感染対策から面会することもできない。わたしたちは祈らざるを得ない、祈るしかなくなるのではないでしょうか。その時にどう祈ればよいか、神様にちゃんと聞いていただかねばと、整った祈りをする必要はありません。もうがむしゃらに、ただすがりつくように祈るしかないのです。

そして、その祈りは最善のかたちで聞かれるということを、イエス様はたとえによって語っておられます。主の祈りに続いて語られた、真夜中にパンを求めて尋ねてくる友人のたとえもそうです。このたとえに続いて「求めなさい。そうすれば与えられる」の御言葉が続きます。

今日のルカによる福音書18章のテキストの構成も、そことよく似ています。イエス様のたとえは、18章2節以下です。
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」。

このたとえ話で語られていることは、それほど難しくはないと思います。ここに出てくるのは一人の裁判官と一人のやもめです。やもめとは、夫と死別または離婚した後、独身でいる女性のことです。現代ではそうばかりとは言えませんが、聖書の時代、イエス様も、貧しくて弱い立場の代表として、やもめを取り上げています。

もう一人は裁判官です。法にのっとって、人や事柄を裁く人です。日本でも裁判官になるのは大変なことです。よく勉強して司法試験を通らなければ裁判官になれません。裁判官には正しい裁きをするための資質も備わっていなければなりません。ところが、このたとえに出てくる裁判官は、資質という点では欠けています。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と紹介されています。神を畏れないということは、畏れる者は何もないと思っているということです。だから、人を重んじることができません。自分がこの世の頂点にいる。まさに自分が神にでもなった気になっている、怖い者なし、実に偉そうにしていた裁判官です。

そんな裁判官のもとに、一人のやもめがやってきます。やもめは弱い立場の人ですが、しかもこのやもめは、かなり苦しい境遇にいたようです。彼女は、先ずはこの裁判官に自分の訴えを聞いてもらって、自分を苦しめる相手を裁いて、わたしを守ってほしいと願います。それも、かなりしつこく迫ったのです。

すると、しばらくは取り合おうとしなかった裁判官でしたが、「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と言ったのです。

たとえ話自体はここで終わっています。でも、この裁判官がやもめの訴えを聞いたことは間違いないでしょう。イエス様の時代、不当な扱いを受けた女性が法的に訴えるのは難しかったようです。女性が訴えるときは、父や有力者の後ろ盾が必要だったのです。ところが、彼女の場合は、それもなかった。

いくつかの注解書には、この裁判官はユダヤ人でなくローマの裁判官であったと書かれてありました。彼らは賄賂を積めば動いたようです。イエス様が、この裁判官を「不正な裁判官」と呼んでいるのはそういうことでしょう。しかし彼女には、買収できるようなものも何も持っていなかったのです。

そのように現実的には不可能と思えることでしたが、神を畏れず人を人とも思わないような裁判官でも、彼女のために裁判をしてやろうという気になったのです。その理由は何だったのか。この裁判官が、弱い者を助ける気になったとか、そういうことではありません。うるさくてかなわないからというのです。そうでないと、さんざんな目にあわされると思ったからです。

わたしはこの説教原稿を書きながら、昔見た映画を思い出しました。先月の子ども礼拝でマザー・テレサの話をしましたけれども、15年以上前に見たオリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」という映画です。そこにかすかに覚えているシーンがあるのです。マザーのところで働きたいと志を立てインドにやってきた若いシスターがいましたが、志半ばに帰国することになりました。マザーは彼女のことを覚えていて、インドでの活動がピンチになったとき、彼女に電話して、このピンチが乗り越えられるように、祈りによって天を揺さぶってほしいと、マザーが頼んだシーンがありました。

そのシーンを見た時、苦しい状況の中でもあきらめないで、ひたむきに祈るやもめの姿と重なったのです。神様は必ず顧みてくださるのだと。ところが、しばらく経ってから疑問が湧いてきました。果たして、人間が熱心に祈ることで、天がゆさぶられることがあるのか、だから聞かれるのか。もしそうであれば、わたしたちはこう祈ることで、神をゆさぶらねばと考えてしまうのではないか。だとすると、わたしたちの行いが主になってしまうのではないかと、思い始めたのです。

でも、そうではないはずです。わたしたちが熱心に祈るからではなくて、神は初めからわたしたちに必要なものが何かわかってくださっている。神は必ず良いものを与えてくださると信じることができるからこそ、イエス様が1節で言われたように、気を落とさずに絶えず祈ることができるのではないか。このたとえ話を読み間違えてはいけないのではないかと。

イエス様は、7節で「不正な裁判官」と呼んだように、この裁判官を、裁き主である神と類比しようとしていつのではありません。不正な裁判官は、弱いやもめを助けようとしたのではなく、「うるさくてかなわないから」言うことを聴いたのです。彼がしたことは打算にすぎません。

つまりこのたとえは、類比ではなく対比として語られたのです。「まして神は」の「まして」が大切です。「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われたように、憐れみ深い神が放っておかれるはずがないのです。

そして、今日のテキストを読み解くうえで、もう一つ忘れてはならないことがあります。それはこのテキストが、エルサレムへの受難の旅の後半に置かれていること。そして先週のテキストでは主の再臨、終末の裁きが語られていましたが、その流れの中で、このたとえ話が置かれているということです。8節にも「人の子が来る時」という言葉が出て来ます。

さらに7節には「選ばれた人たち」という言葉が出て来ます。このたとえの聴き手である弟子たち、そして今朝の礼拝に集められているわたしたちも、神に選らばれた人たちです。神に選ばれた人たちには、主が再び来られるときに、滅びではなく救いが完成されるということを、イエス様は語られているのです。

この世においては、不正がまかりとおっています。格差が生まれ、真面目に生きている人ほど顧みられないと思えることが、山ほどあります。そのときに何もしないでいるのか、ダメだと分かっていてもあきらめずに訴え続けるのか。そのことについては、幼稚園南隣に建築されたマンションの日照問題で、わたしたちは激しく問われたのではなかったでしょうか。

あの裁判で訴え続けたこと、とりわけ親も先生も弁護士もそうでしたが、女性たちのあきらめない姿とこのやもめの姿は重なります。担当の裁判官たちは、ここに出てくるような不正な裁判官ではないものの、この世の裁判は、裁判官によってどう転がるかわからないという不完全さがあるという点では重なります。

結果として、ひたむきな訴えが裁判官を動かし、よい判決を勝ち取ることができたといえます。一方でわたしが終始考えていたことは、この世の裁きはどう転ぶが分からないけれども、神様は最後にはすべてを明らかにしてくださるということでした。ですから、裁判も勝ち負けで一喜一憂するよりも、やってみることに意味があると思っていました。やらないと何も変わらないし、やってみることで新しい出会いや発見があり、相手が変わるとか、状況が変わるのではなくて自分が変えられていくのです。

信仰者はそうした営みの中で、神の導きを信じてこの世を歩んでいくのです。イエス様は、叫び求めている選ばれた人を、「いつまでも放っておかれることがあろうか」と言われました。この約束があるからこそ、わたしたちは安心して祈ることができる。

そして8節、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われます。最後に終末の話をされていますが、この言葉の意味することが理解できるでしょうか。

今日の説教の初めに、祈れない自分を見つめることはないかという話をしたように、わたしたちは、祈りが聞かれないときに、祈りをやめてしまうことがある。それはイエス様から見れば、地上に信仰を見出すことができないということに他ならないのです。イエス様が、エルサレムが近づいている中で、やもめと裁判官のたとえ話をとおしてひたむきに祈るたいせつさを話されたこと。さらに6節以下で、それを解説するように話されたことは、自身が世を去ったとき、そして天に上げられた後で、地上に生きる信仰者が祈り続けることができることを願ってのことなのです。

世の状況は変わらなくなったとしても、主は要なものを与えてくださっています。教会があるということもそうです。共に礼拝できることもそうです。主が約束されたことで、約束通りにならなかったことは何もありません。唯一、果たされていない約束はといえば、主がまだ戻ってこられていないということです。それは、まだその時期ではないからです。今は、「果たして地上に信仰を見出すことができるだろうか」と言われる時代だからです。

教会は、聖餐の制定の言葉で読まれるように、「主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。それは十字架とよみがえりの主を宣べ伝えるということです、そして、あきらめることなく、ひたむきに祈り続けるのです。すみやかに正しい裁きをしてくださる主を待ち望みつつ。