民数記11章24~30節  コリントの信徒への手紙一14章1節~19節
「教会を造り上げる言葉」 田口博之牧師

コリントの信徒への手紙一は、コリントの教会がキリストの体として造り上げられるために、パウロが心を尽くして書いた手紙です。これまで12章から14章を続けて読んできましたが、パウロが集中的に語ってきたことは、霊的な賜物についての混乱を収めることでした。

コリントの信徒たちの中には、豊かなカリスマが与えられた人たちが大勢いました。それ自体、とても素晴らしいことなのですが、そこからコリント教会の問題が生まれました。賜物に優劣がつけられ、思いを一つにできなくなってきたのです。そのために、パウロは13章で愛を語るのです。優れた賜物が与えられていたとしても、愛がなければ何の意味もない。愛は永遠であり、他のいかなる賜物とは比べようもなく、もっとも大いなるものなのだと語りました。

12章の終わりで、「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と言って、愛が語られたことを思えば、愛は賜物の一つのように思えますが、そうではありません。14章は、預言と異言の二つの賜物が比較されていますが、預言と愛、異言と愛は比較しようにも、比較できないものです。その意味で、愛は最大の賜物というよりも、賜物を生かす基盤のようなものだといえます。

どれだけ信仰熱心でも、愛を見失うと自己本位になります。14章ははじめに、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語られています。パウロは異言以上に預言を重んじていますが、どれほど預言する賜物が与えられていたとしても、「愛がなければ、無に等しい」のです。

では、預言とは何でしょうか。パウロは霊の賜物の一つとして語ってきましたが、それはパウロのオリジナルではありません。民数記11章24節以下を読みました。主がモーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老に授けると、彼らのうちに霊はとどまり、預言状態になりました。その後、宿営に残っていた二人の長老も預言状態になりました。預言状態と言われていますので、神がかったトランス状態に陥ったと読めなくもありません。だから、モーセ後の指導者となるヨシュアは、これをやめさせるように言ったのではないかと。しかし、モーセがヨシュアに告げた「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」という言葉からすると、モーセはこれをポジティブに受けとめていたことが分かります。荒れ野で起こったペンテコステと読むことができます。

もちろん、旧約の初期の段階の預言、イザヤ、エレミヤなど記述預言者の時代の預言、新約聖書、初代教会の時代の預言は区別して考える必要はあります。そして、コリントの信徒への手紙で語られている預言については、説教と置き換えたらいいと言われることがあります。わかりやすく言えばそうなるのですが、そう簡単に言ってしまっていいのかなという、ためらいを持っていました。

著名な神学者が、「預言」について語っていますが、パウロの言葉から具体的に知ることはできないと言っています。ただし、旧約の預言を手掛かりとして改めて言うならば、預言というのは、神が常に語られた言葉を、ある特定の時に新しく聞き取られ、新しく語られる言葉。「今日ここにおいて」教会の主が語られる声に耳を傾けるところから語りだされる言葉だと言います。そこで語られるのは神のご意志であり、神が何を喜ばれるのか。キリストを知らない者たちの心に悔い改めを呼び起こすと言うのです。

これは、なるほどと思える説明であり、説教の原形と言うことができます。12章28節に「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」とあります。ここを説教したときに、使徒と預言者は、今はいないけれども教師は残った。わたしも教師だという話をしましたが、初代教会において、預言者は説教者という言い方に変わってきたと言えます。その意味で、説教は預言です。少なくとも、異言で説教するなどということはありえないのです。

異言についても、これまでに何度か語りましたが、霊的興奮状態の中で発する意味不明の音声のことです。1節から5節は、異言と預言とを比較しながら交互に語られていますが、シンプルな言い方をすれば、預言は人が聞いて分かる言葉だけれども、異言は人が聞いても分からないということです。

2節に、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」とあります。神に向かって語いる。霊によって神秘を語っているのですから、そこだけ取り出せば、素晴らしいカリスマです。ですから、コリントの教会では異言が重んじられたのです。

しかし、パウロはそうではないと言います。それは13章1節で、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と語られたことに通じます。神に向かって語っていても、それを聞いた人が、何を語っているのか意味が分からなければ、やかましいだというのです。かなり挑戦的な言葉だと言えますが、ここで「わたしは」と言っていることから考えると、パウロは自分を律して語っていたことに気づきます。なぜなら14章18節で「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っているように、パウロ自身、異言を語ることができたからです。「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と言っています。

この14章を読んでいくと「異言を語る」という表現が、たくさん出てくることに気づきます。しかし、異言を語るというのは、具体的には異言で祈ったということだと思われます。人ではなく、「神に向かって語る」というのですから、祈りまたは賛美を指しているのでしょう。

パウロは14節以下で、「わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」と言っています。裏を返せば、異言で祈っている限りは、理性が働いていないということです。理性が働かないと周りが見えなくなります。周りの人がどう思おうが関係ない、自分がよければそれでいい、身勝手な祈りになってしまいます。

今日の礼拝で、わたしは、礼拝の司式を兼ねています。司式者には礼拝を整えるという務めがあります。名古屋教会では、礼拝の中で「司式者の祈り、会衆の祈り」があります。祈りは、神に向かって語るものですが、日曜日の礼拝は、「公の礼拝」ですので、礼拝での司式者の祈りもまた「公の祈り」となります。すると、ただ神だけに向かって祈ればいいとはなりません。「この祈りを、ここに集う一人一人の祈りに合わせて」と言う場合もあるように、司式者は教会を代表して祈るのです。礼拝に集う人が、まことにそう、「アーメン」と言える祈りが求められます。

何だか次週から司式をする長老にプレッシャーをかけているようですが、そうではなく、これまでのように続けてくださればよいのです。自分は長老ではないから関係ないということではありません。来年は長老に選ばれているかもしれません。モーセは、「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言いましたが、わたしも同じです。長老選挙で、長老に選ばれそうになるということは、主がその務めに立たせるために、ご自身の霊を授けようとしておられるということなのです。

2020年の春、新型コロナウイルスの感染が拡大し、礼拝の問い直しがされたときがありました。その時に「聖日礼拝の手引き」いう小さな冊子を発行し、教会の皆さんにお配りしたことを覚えているでしょうか。前奏から後奏、報告に至るまで、礼拝でしているこれにはこういう意味があるということをコンパクトに記しました。その中でもっとも詳しく書いたのは、「司式者の祈り」です。「牧者の祈り」から「司式者の祈り」に変更したことが一因ですが、それは長老のためばかりでなく、皆に「教会の祈り」とは何かを知っていただきたいからでした。「聖日礼拝の手引き」は、教会のホームページにも載せていますが、カウンターの中に8部残っていましたので、出しておきました。お持ちでない方はお取りください。

祈りだけではなく、賛美もまた神に向かいます。礼拝で讃美歌を歌うときに、神に喜んでいただける賛美というものがあるはずです。礼拝では5曲讃美歌を歌っていますが、「聖日礼拝のしおり」には、礼拝のこの位置では、こういう思いから、こういう讃美歌を選んでいるということも書いています。そこを考えずに、自分はこの讃美歌が好きだから気持ちよく歌えるということではありません。日曜の礼拝は、公の礼拝です。礼拝の讃美歌は出来ればユニゾンで、オルガンの音と会衆の声もよく聞いて、息を合わせて歌うことが大事です。祈りも、賛美も、また信仰もそう、自分の思いが強く出過ぎると、独りよがりなものとなってしまいます。

16節に「仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」とあります。「アーメン」とは、「まことに、そのとおりです」という意味です。教会に来て間もない人でければ、何を祈っているのか分からないこともあるので仕方がないことですが、礼拝で祈る時、「アーメン」と大きな声で応答していただきたく願います。

さて、異言と預言の違いについて、単純に言えば「分かる」か「分からない」の違いだと話をしてきましたが、そればかりではありません。このテキストで鍵になる言葉として、「造り上げる」という言葉があります。3節から5節の間だけでも4度出てきます。「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。」

預言の言葉というには、ただ分かるというだけでなく、それは「人を造り上げ、励まし、慰める」言葉となり、それは「教会を造り上げる」言葉になると言うのです。この「造り上げる」という言葉、原語で「オイコドメオー」と言いますが、家を意味する「オイコス」に由来します。建築家が家を建てるというときに使う言葉です。建徳的な意味から「徳を高める」と訳されることもあります。預言の言葉が人に伝わると、その人が建つのです。崩れていた心が、励まし、慰められるこいとで、家が建ち上がる時のように立ち直ることができる。

「人を造り上げ」の後に、「励まし、慰め」という言葉が続いています。確かこういう歌詞の讃美歌があったはずと思い、中々思い出そうにも思い出すことができない。ここまで出てきているのに思い出せないときの何ともいえない思いを分かっていただけるでしょうか。でも、思い出すことができました。ただし、それは讃美歌ではなく、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」でした。わたしも随分古い人間のようですが、小学生の頃に親がテレビで見ていた懐メロで知りました。

「長崎の鐘」は、被爆地長崎の絶望からの復興をモチーフとした歌です。NHKの朝ドラ「エール」では。永井隆博士と古関裕而氏のやり取りから、この曲がどのようにできたかを描いていました。皆さんがピンと来るかどうかわかりませんが、あの曲には、短調から長調に転調するところがあります。そこに「慰め、励まし」という歌詞が出てくるのです。(「はかなく生きる野の花よ」→(転調)「慰め、励まし、長崎の」と飛躍するところが、藤山一郎の通る声と共に、まだ小さかったわたしの記憶に刻まれました。日本がまだ占領下にあった頃の曲だと思いますが、戦災からの復興の希望を与える歌になったのではと想像します。

異言のように聞こえたら申し訳ないことですが、「励まし」も「慰めます」も、原語では聖霊、慰め主を意味するパラクレートスの動詞形です。パラカレオーは、「造り上げる」オイコドメオーを言いかえていると言えます。慰め、励まされることで、人は立ち上がることができるのです。それが預言の言葉です。そして、預言する者は、教会を造り上げるのだと言うのです。力ある主の教会を形づくるのです。教会は慰めの共同体です。自分を造り上げることに目が行くあまり、慰め励ますことから遠くなっているコリントの教会に対して、パウロは警鐘を鳴らすのです。

預言を説教と呼び変えるのは抵抗があると言いましたが、今日のテキストと向き合ううちに、説教は預言でなければならないと自覚するようになりました。聞く人が、まるで異言を聞いているようで何も分からない説教では意味がありませんが、分かりやすいというだけでは意味を持たないのです。自分が語る説教の言葉が、聞く人を励まし、慰めるになっているか。この暑さの中でも、教会に来てよかった。そう思えるもの、1週間を生きていく力を与えるものになっているのか。そして、教会を造り上げる説教になっているのかを、わたし自身もっともっと問いながら、説教準備をしなければと思うにいたりました。

そのために必要なこと、それはCSの説教でもそうですが、聖書の説明をするのでなく、聖書を語るということです。準備するほど、説明せねばという思いにかられますが、そこは捨てて聖書に語られている福音をストレートに語る。その時に、聞く人は語られた御言葉に励まされます。モーセがそうであるようにパウロもまた、皆が預言できるようにしなさいと勧めています。自分を造り上げるのではなく、キリストの体である教会が造り上げられることを祈ります。名古屋教会に集う一人一人が、与えられた賜物を用いた預言者集団となることができますように。