創世記2章4b~7節、Ⅰコリント12章27節~13章3節
「愛がなければ」 田口博之
コリントの信徒への手紙一の12章を続けて読んできました。聖霊の賜物について語っていますが、コリント教会の特質として、霊的な賜物に優れた人が多かったということが挙げられます。しかし、それが諸刃の剣となり、賜物に優劣を付けたり、競い合ったりすることが起こり、教会の中がぎくしゃくしてきしたのです。その問題を解決すべく、パウロは一人一人に与えられた霊の賜物は尊いもので、何一つ軽んじられるべきでないことを、人間の体の各部分、各器官にたとえながら話をしました。
これをまとめるかのように、27節で「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」と語りました。しかしパウロは、教会という組織、しくみをわかりやすく説明するために、教会を人間の体にたとえたのではありません。そうでなく、教会をイエス・キリストの体にたとえたのです。教会に生きるわたしたちは、イエス・キリストの体の一部に組み入れられたのです。
そのときに勘違いすることがある。わたしたちは教会というと、目に見える名古屋教会だけを見て、名古屋教会というキリストの体の中で、自分はどんな働きをしているのかと考えると思います。けれども、そういう見方だけでは不十分なのです。
教会では人間の組織と同じように総会を行います。主の御心がここにあることを総会で確かめて1年の歩みを始めます。名古屋教会では3月に1次総会、4月に2次総会がありますが、教会の総会はそれだけではありません。6月には愛知西地区総会がありました。名古屋市内と尾張に属する35の教会・伝道所で構成されています。名古屋教会は、愛知西地区というキリストの体のうちの一つです。ですから、弱い部分があれば地区互助の制度の中で助け合います。
5月には二日日かけて中部教区総会が行われました。中部教区は、北陸の三県、富山、石川、福井、そして東海側の愛知、岐阜、三重の6県、103の教会があります。名古屋教会は、センター教会としての役割が期待される教会です。そのためには、教区で奉仕する人を送り出すことも必要ですし、財政的に支えていくことも必要です。
名古屋教会の負担金は、今年度、地区、教区と合わせて140万円近く課せられています。ですから、教会の予算の10分の1近くが負担金です。名古屋教会のことしか見ていなければ、何でそんなにたくさんの負担金を納めねばならないのかと思いたくもなります。他方、単立教会であれば、負担金は必要ありません。自由に使えるお金も多い。では、もし、名古屋教会が教団や他の教派に属していない単立教会であったならどうなっていたでしょう。牧師が辞任すると言ったら、次はどうすればよいのでしょうか。招聘することができなければ、教会の中の誰かを教会で育てるしかありません。無牧になった時に、金城学院に応援を頼んだとして果たして来てくれるでしょうか。単立教会では交わりを築くことができないのです。
日本基督教団は、全国に1666の教会があります。小さな教会が多いのですが、転勤でどこかの町に行ったときに、そこに日本基督教団の教会があれば大きな支えとなります。教区負担金の約半額は、教団の負担金です。負担金を納めるという言い方をしますが、税金ではないのですから、負担金も献げるという思いを持ちたいと思う。
受洗準備会で「信徒必携」という小さな本を読んでいますが、「教会の組織」という節の最後に、「教団、教区と各個教会」という項目があり、そのまとめの文章を読むと、「自分の教会だけがよければよいとして、他の教会や地区、教区、教団に無関心であるような、閉鎖的態度に陥らないようにしなければならない」と書かれてありました。全体教会の中の体の一部であることを是非、覚えてほしいと思います。
28節で、神は賜物に応じて、教会の中にいろいろな人をお立てになり、その賜物にふさわしい務めや働きをお与えになることを語ります。「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」とあります。
うち、初めに出てくる三つ「使徒、預言者、教師」とは、神が当時の教会に与えられた職務です。とりわけ使徒とは、イエス・キリストに直接召され、福音宣教のために遣わされた人です。聖書を読んで使徒と呼べるのは、イエス様がお選びになった12人とユダの後を埋めたマティアそしてパウロと限定して考えるべきでしょう。
第二の預言者が何者なのか。洗礼者ヨハネが最後の預言者と言われますので、明確ではありません。今風に言えば説教者のことと言うと簡単ですが、それだけでは終わらない気がします。旧約の預言者がそうであったように、神から預かった言葉をストレートに述べて、悔い改めと裁きを訴える役割の人であったと思えます。
第三の教師については、キリスト教信仰や、聖書について教える人のことです。使徒や預言者は現代の教会はいませんが、教師は残りました。わたし自身も教師です。日本基督教団の職制では正教師と補教師に分かれていて、教会に仕える正教師を牧師と呼び、補教師を伝道師と呼びます。学校に仕える教師は、正教師と補教師に限らず教務教師です。いずれにせよ、「使徒、預言者、教師」の三つに共通することは、御言葉を伝えるということです。
次に、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などが続きます。こちらの人たちは、教会の中で与えられた賜物に応じて奉仕する人のことです。注目したいことは、「援助する者、管理する者」がここに出てくることです。これは奇跡を行うとか、病気をいやすとか、異言を語ることと比べれば、馴染みがあります。そして、世俗的だと言っていいでしょうが、その世俗的なことが、キリストの体である教会にとって欠かすことができないものであり、聖霊の賜物として数えられていることが面白いなと思います。
ここでは「管理する者」に絞ってお話したいと思います。教会でも、書記は教会の記録を管理し、会計はお金を管理する務めがあります。ここには、今もそうですし、かつて書記長老や会計長老を経験された方がおられるでしょう。教区総会では、教会記録審査委員会が組織されます。形式審査とはいえ、各教会の長老会記録と教会総会記録が整えられているかを審査するのです。教会記録審査で一番大切なのは、議事録の改変がなされないこと、散逸しない仕上がりになっているのかをチェックすることです。記録がきっちりしていても、製本が脆いと意味をなしません。
教区の書記をしていた頃に、教会の記録は何年保存すべきなのかという問い合わせがありました。会計帳簿だと、7年とか10年という決まりがあるが、議事録はどうなのかと。そういう聞かれたときに、迷わず「永遠です」と答えました。現実に永遠に保存することは難しいでしょうが、なぜそう答えたかといえば、教会史を作る時に必要になるからです。ここ10年の記録しかありませんでは、教会史や記念誌は作ることができません。
ただし、今ほとんどの教会で苦労されているには会計長老の担い手です。会計がきっちりしていないことには教会は回っていきません。教会史と言っているどころでなく、今日、明日の問題となります。規模の大きな教会だと、人材が豊富なのでいいと思われがちですが、10人の教会の会計と100人規模の教会の会計では、当然後者の方が複雑です。むしろ規模が大きな教会ほど、労苦している現実があります。それでも教区の中には賜物のある方がいて、ある教会の役員の方が使い勝手のいい会計ソフトを作ってくささいました。これを次週の常置委員会で紹介していただくことになっています。
パウロは、教会の中で立てられた方たちの賜物について紹介しましたが、その後29節以下で、「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか」と反語調で述べています。これは「皆がそうでなくてもいい」という表現の仕方です。
賜物があるということは素敵なことですが、ないものねだりする必要はない。目の働きは大事ですが、見ることについては任せればいい。目が顔の前に二つ付いているだけねなく、頭の上や、背中にも付いていたとすれば、それは、便利なようで大変なことにはならないでしょうか。「神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」
その上で、12章の終わりですけれども、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と語っています。賜物にはいろいろあるのだと語ってきた最後のところで、実はもっと大きな賜物があるのでこれを求めなさいと語り、13章で「愛」について語るのです。13章は、よく「愛の賛歌」と呼ばれ、結婚式などで読まれます。キリスト教が愛の宗教だと言われるときに、必ずと言っていいほど引用されます。いや、この1コリント13章があるから、キリスト教は愛の宗教だと言われるともいえるでしょう。
そのうち、今日は13章3節までとしました。13章全体は、次週あらためて読みますが、今日のところで12章からつなげて読んだのは、13章は、「愛の賛歌」として、独立して読むよりも、前後の12章そして14章と切り離さずに読んだ方が、正しく理解できるからです。
コリントの教会の中で、最も優れた賜物だと見なされていたのは、異言を語ることでした。先ほど「天使の言葉も」という讃美歌を歌いました。異言を聞いても何を言っているのか分かりませんが、異言を語る人が天使と会話していると言ったとすれば、この人はすごいということになるのではないでしょうか。外国の方と流暢に会話されたりしているのを見聞きすると、この人は出来る人だと思うでしょう。でも、その時に通訳が入るのと入らないのとでは有難さが全く違う。
パウロは、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言います。パウロは異言を認めていないどころか、素晴らしい賜物だと認めています。しかし、そこに「愛がなければ」何を言っているのかが伝わらないし、騒がしいだけだと言うのです。
しかし、パウロは、どらやシンバルを否定しているのではありません。やかましく聞こえるのは、その使い方が間違っているからです。ビゼーのカルメン、ラベルのボレロ、スラブ行進曲などでシンバルが入らなければ冴えないものとなる。でも使い方を間違えると、耳障りなだけで、何も伝わらないし、不快感を与えるだけなのです。
次に「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」とあります。預言はパウロが優れた賜物として認めたものですが、語ることで自らの知識を誇ったり、また「山を動かすほど」一点の曇りもない信仰を持っていたとしても、「愛がなければ」無に等しいと言うのです。
驚くべき言葉ですが、もっと驚かされるのが、次の「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」という言葉です。なぜなら、これは先の二つとは違って、このようにすることこそが愛だと言えるからです。
俳優の杉良太郎は、自然災害が起こると、炊き出しに行ったり、思い切った寄付をすることで知られています。東日本大震災の被災地にトラック何十台分かの支援物資を持って現地に入ったことがありました。そのときに、テレビのリポーターが「売名ですか?」と聞くと「それのどこが悪いのか」と答えたところを見ました。実に潔かったです。「困っている人が助かればそれでいい」、福祉は一方通行というスタンスで私財を投じています。
しかし、パウロはそれ以上のこと「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」と言っています。そんなことをしたら、自分は生きていくことができません。さらには、「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と言っています。共に自己犠牲の行為です。誇ったとしてもよいことではないでしょうか。
ところが、それほどの自己犠牲に生きたとしても、「愛がなければ何の益もない」と言うのです。先週もある方との話の中で、十字架と自己犠牲と愛の話になりました。アガペーの愛が顕著に表れるのは十字架です、十字架は自己犠牲の愛です。しかし、この3節では自己犠牲と愛がつながっていません。難しいところですが、パウロが「愛がなければ」と言っているということは、そこに十字架の贖いがなければということではないのではないでしょうか。
現実に、わたしたちが自己犠牲を払おうとも、周りの人を悲しませるだけ、そんなケースがあると思います。全財産を投じても、それがカルト宗教であったとすれば益はありません。自分の命を投げうっても、それが戦争によるのであれば益がありません。自己犠牲を払っても無益なものしか残らないことがあるのです。
どれだけ豊かな賜物が授けられていようとも、それが間違ったことに用いられたなら全く意味をなさないということを「愛がなければ」という言葉でパウロは述べているのだと思います。他方、たとえ小さなことしかできなかったとしても、まことにささやかな介護の業も、弟子たちの足を洗われたイエス様に倣うという思いをもって尽くすことができるならば、そこには愛があるのです。小さな業を通して、神様の栄光を現わす器として用いられることを喜びとしたいと思わされています。