詩編133編1~3節、コリントの信徒への手紙一12章12~26節
「一人一人が教会なのです」 田口博之牧師

「一人一人が教会なのです」という説教題をつけましたが、そう聞いても、よく分からないと思われるかもしれません。皆さんは今朝、名古屋教会の礼拝に行こうと思って、教会に来て、それぞれの座席に座られているわけです。その皆さんに対して、名古屋教会員であれば、「あなたも、あなたも、名古屋教会なのです」と言っていることになるのですから。

まず確認したいことは、聖書が語っている教会、ギリシア語聖書のエクレーシアという言葉は、呼び出された者の集いを意味します。わたしたちの教会の信仰告白では、「教会は、主キリストの体にして恵みにより召されたる者の集いなり」とあるように、建物とか場所という意味はありません。教会はあくまでも、キリストの体であり、神に召された者の集いなのです。改革者M.ルターが聖書を広めるため母国語に翻訳したとき、エクレーシアをドイツ語で教会「キルヘ」ではなく、共同体を意味する「ゲマインデ」と訳しました。そこには教会が神に呼ばれた人の集いでであるという意味合いが強く打ち出されています。

それにしても、「一人一人が教会なのです」ではなく、「一人一人が教会員なのです」と言われた方が、何の疑問もなく受け入れられるかもしれません。そう言われればそのとおりですけれども、どうでしょう。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われましたが、わたしたちが、スーパーとかでぶどうを買ったとすれば、実際に買ったのは、ぶどうの房です。食べるときはぶどうの房についた粒を取って食べますが、そのときにはぶどうを食べると言うでしょう。こじつけのように思われるかもしれませんが、一人一人が教会とはそういうことです。

しかし、それ以上に、一人一人が教会であることを教えてくれるのが、コリントの信徒への手紙一12章です。コリント教会は、聖霊の賜物に満ちた教会でした。一人一人は素晴らしい霊の賜物を与えられていたのです。賜物とは、神からの恵みの贈り物ということですので、とても祝福されているはずなのですが、コリントの教会はそうではありませんでした。教会員同志が、与えられた賜物を競いあったり裁き合ったりしていたのです。自分が持つ賜物を誇る人がいます。一方では、自分にはあの人のような賜物は何もない、ここにいる価値がないのではと卑下して教会から離れていく、そんな問題が起こっていたのです。

コリントの信徒への手紙というのは、教会で起こっている問題にどう対処したらよいのかをパウロが教会から尋ねられて、これに答えるかたちで書かれた手紙です。とりわけ、この12章で述べられている霊的な賜物にまつわる問題が、コリントの教会においてもっともやっかいで、教会内で争いが生じていました。

加えて13節に、「わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」とあるように、コリント教会には、民族の違いや社会的な身分の違う人たちが集っていました。けれども、集っている人たちには、一つの霊が授けられていました。それがはっきりと表れているのは、12章3節に「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言えないのです」とあるとおり、イエス・キリストを主と告白することにおいて、教会は一つなのです。「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあるとおり、一つの体とされています。ですから、一人一人に違いがあるとしても、それは体の中の部分や働きの違いであることを、パウロは分かりやすく語っていくのです。

12節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とあります。ここで気づかされることは、「キリストの場合も同様である」というように、教会が人間の体にたとえられているのではなく、キリストが体にたとえられているといことです。これはこの世で歩まれたイエス・キリストは霊の人であると同時に、体をもたれた存在であったということです。

ですから、今日のテキストで、手、足、目、耳など、体の部位が出てきますが、教会に連なるわたしたちが、人間の体のように色んな働きをしている、そんな話をしているのとは違うのです。27節に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあるとおりです。「一人一人がキリストの体の部分」であるからこそ、「一人一人が教会なのです」と言えるのです。

つまり、キリストの体ということを考えないで、あなたがたは教会の体の部分ですと考え出すと、自分は教会で目の働きをしているとか、あの人は手だとか足だとか、そんな話になってしまいます。すると、教会で重要な働きをしていたあの人がいなくなったとなると、その人がしてきたことまで自分がカバーしないといけなくなるのかとか、新しく教会に来られたあの人に、教会を支えてもらおう。そんなことになりかねません。それはとてもおかしなことですが、わたしたちはそんなことを考えがちとなってしまうことはないでしょうか。

聖霊の賜物が与えられている一人一人が、その賜物や働きの特質から、体の部位に分けられているのではなく、一人一人にキリストの霊が注がれ、一つなるキリストの体の部分として存在しています。そのキリストの体が教会であるから、「一人一人が教会なのです」ということができる。

13節「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。コリント教会の複雑さは、与えられた聖霊の賜物に優劣をつけたがっていたことに加えて、民族の違いと身分の違いが根深かったことにあります。そこが理由で教会の中でグループや派閥が出来て、分裂騒ぎが起こったことは想像に難くありません。でも、それはおかしいとパウロは言うのです。あなたがたは、一つの霊が授けられているのだから、一つの体となるために洗礼を受けたのだからと。

14節以下では、体が多くの部分から成っていることを例にあげながら、一人一人に与えられている霊の賜物やその働きについて語られていきます。その中でも、14節から20節では、自分には他の人より劣っていると、劣等感を抱いている人に向けて語り、逆に21節以下では他の人よりも自分は優れていると、優越感を抱いている人たちを念頭にして語っているといえます。

具体的に見ていくと。劣等感を抱く人々は、「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」そんなつぶやきをしていたのです。しかし、足が手に対して、耳が目に対してコンプレックスを抱いくようなことがある筈がありません。わたしたちはないものねだりをしがちです。あの人のような賜物を持ち合わせていない、あの人のような働きができないからだめだと思ってしまうかもしれない。でもそれで、足や耳が体から切り離されるわけがありません。一人一人には固有の働きがあります。

それは、賜物や働きの優劣だけでなく、出身や社会的な身分の違いも含まれるでしょう。しかし、18節で「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」とあるように、一人一人が、霊の賜物が与えられたキリストの体の部分であるがゆえに、尊い存在なのです。

パウロはそのことを念押しするため、今度はプライドの高い人たちを見ながら「目が手に向かって、『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」と注意を促します。目が手を、頭が足を軽んじるなどあり得ないことですが、コリント教会では、身分の違いや与えられた固有の賜物の違いによって、「お前は要らない」という言葉が聞かれるようなことが起こっていたのです。

これに対してパウロは、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と語るのです。「体の中でほかよりも格好が悪い部分」、「見苦しい部分」があったとしても、それらを覆って格好よくしようとしたり、見栄えよくしたりする必要はない。なぜなら、神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられたことで、各部分が互いに配慮し合っているのだからというのです。

わたしたちは自分の体のことを考えても、体のどこかを痛めたとき、他の部位が痛めたところを自然にかばっていることに気づきます。目の不自由な方の中には、その不自由さを補うだけの鋭い感性が身についている方が多くいらっしゃいます。26節に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とあります。歯が痛めば、それは歯の痛みだけでは済みません。指の爪が割れたら、その痛みは指先の痛みでは済まないでしょう。でも、それを自分の体だけで考えるのであれば、想像力の欠如だと言われても仕方のないことです。

沖縄がまだアメリカだった頃、革新統一運動の象徴的存在だった喜屋武真栄(きゃん しんえい)議員は、「沖縄同胞の心情を人ごとと思わず、小指の痛みは全身の痛みと感じ取ってください」と日本政府に訴えました。しかし、この訴えは、沖縄が返還されたことですべて聞かれたのかといえば、そんなことはありません。

「小指の痛みは全身の痛みと感じ取ってください」という訴えは、50年以上経った今もそのまま残っています。この訴えは政府ばかりでなく、わたしたち一人一人が聞かねばならないものです。共に苦しむことがなければ、共に喜ぶことはできません。イエス様の憐れみは、他者の小指の痛みをご自身の全身の痛みとするような、はらわた痛む憐れみです。そこにご自身を犠牲にされたアガペーの愛があります。十字架にこそアガペーの愛はあらわされています。

コリントの信徒への手紙一12章を続けて読んでいますが、発端は、ペンテコステ伝道月間の最後の週の礼拝で、3節の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」この御言葉を中心メッセージとしようと思い立ったところでスタートしました。しかし、それで終わるわけには行かないと思うにいたって、12章を読み続けることにしました。そして、12章を終わりまで読んでいくと、12章から13章のつながりを強く意識するようになりました。それもまた聖霊の導きによるものです。

再来週予定した礼拝説教の予告になってしまいますが、聖霊の賜物について語り切ったパウロは、31節で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と呼びかけたうえで、13章で「愛」について語りはじめています。それは愛こそが最高の道であり、最大の賜物だからです。一人一人にどれほど素晴らしい賜物が与えられていたとしても、「愛がなければ、無に等しい」ことが語られます。それはまさに、小指の痛みを全身の痛みとすることができなければ、あなたがたは無に等しい。キリストの体、一人一人が教会とは言えない、そういう話となるのです。

愛を知らないわたしたちをイエス様は愛してくださいました。わたしたちのためにご自分の命を捧げられた十字架の愛です。その命を犠牲にされた愛の証が、今から行われる聖餐に表されています。聖餐の司式をするとき、ここに集われる一人一人が教会、キリストの体であることを強く感じるのです。

「これは、あなたがたのために裂かれた主イエス・キリスト体です」と言って、分けられたパンを一人一人が共に食する。一つなるキリストの体が分けられ、それを共にいただくときに、わたしたちは一つの霊を注がれ、一つの体となることを実感することができます。その感謝と喜びが、キリストの体の部分として働くことの原動力となっていくのです。わたしたちが生きる世には厳しい戦いがありますが、世に勝たれたキリストの体として生きていくときに、この世を生き抜いていける力になるのです。