2024.5.12 ルカによる福音書24章50~53節
「祝福と賛美に包まれて」田口博之牧師
2018年のアドベントから読んできたルカによる福音書を今日で読み終えることになります。必ずしも毎週読んできたわけではありませんが、5年半かかりました。当初は厳密な意味での連続講解説教をするつもりはなかったのです。連続でしたとしても、礼拝に出席される皆さんは先週も出席されていたわけではありません。よく大河ドラマなどでは、「今からでも間に合う」というキャッチフレーズで、たとえば1月から4月までのダイジェストを流して、5月からでも見てもらえるようにPRすることがあります。しかし、説教はそのようなことはできませんし、また必要もありません。毎週のように礼拝に出席されていても、御言葉との出会いは一期一会です。
連続で説教をする場合、説教は講解となります。講解とは聖書の内容を説き明かすということですが、言い換えると説明する、解説するということです。説明や解説が必要な場合もあるのですが、そうすることで退屈するということになりかねないのです。ですので、聖書の一語一句を解説するという仕方はしてきませんでした。与えられたテキストから主題を見出し、物語っていくような説教ができればと思っていました。そうすることで、今日の説教は難しかったとか、勉強になったと思って帰って会堂を出るのではなくて、神様は素晴らしい方であることを知る。ベツレヘムの飼い葉桶に寝かされた幼子を見た羊飼いたちが賛美しながら帰っていったように。イエス様に救われた人が、このことは黙っていなさいと言われたのに踊りながら賛美したように、わたしたちも神さまを賛美しながら帰ってゆく。今日の礼拝であれば、神様は素晴らしい方、と心弾ませて大掃除をする。よい知らせを聞くということは、そういうことではないでしょうか。
さて、ルカによる福音書は、イエス様が昇天される場面で結びとしています。このとき、ルカが福音書に続く第二巻として使徒言行録を書こうという構想があったかどうか、福音書を読む限りでは、よくは分かりません。しかし、49節にあるように、弟子たちは「高い所からの力」である約束の聖霊を受けるために、都すなわちエルサレムにとどまることを命ぜられています。それは明らかに、続編があることが示唆されています。聖霊降臨が起こるためにも、イエス様は地上にとどまられるのではなく、天に上げられねばなりませんでした。
そして第二巻である使徒言行録の冒頭にも、イエス様が天に上げられる記事が記されています。イエス様の昇天の記事が、福音書と使徒言行録の橋渡しになっているのです。教会の暦では、先週の木曜日が「昇天日」でした。今年はイースターが3月31日でしたので、40日目の5月9日がイエス・キリストの昇天日だったのです。使徒言行録1章3節に、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。これが召天日の聖書的根拠となっています。その10日後に聖霊降臨の出来事がありました。
ところが、ルカは福音書の方では、この40日について何も語っていません。使徒言行録の記述がなければ、復活された日に天に上げられたようにも読めてしまうのです。その意味で矛盾があります。ルカは福音書の最初、テオフィロ様への献呈文において、「すべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と書いていますが、歴史家としては緻密さに欠いているように思えます。しかし、歴史家であるがゆえに、ルカはイエス様の生涯だけでなく、誕生から昇天までを書き記したのです。さらに、第二巻で使徒たちの働きを加えることで、イエス様が歴史に生きられたことの意義を記したといえます。
さて、使徒言行録の昇天の場面では、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」と語られています。ああ、イエス様が目に見えない、遠い所に行ってしまったと、茫然と天を見上げる弟子たちの様子がうかがえます。
ところが、福音書の昇天の様子はそうではないのです。ルカによる福音書24章50節以下をもう一度読んでみますので、このときの情景を思い浮かべながら、朗読を聞いていただきたいと思います。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
どうでしょう。ここには、「あ~あ、イエス様が行っちゃった」というような寂しさはありません。使徒言行録の方では、スケルトンのエレベータに乗るように、スーッと上がっていかれる姿がイメージできますが、ここでは「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と書かれています。見送った弟子たちにも淋しさはなく、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」というのです。最後に「アーメン」が付けられた写本もあります。大団円で舞台の幕が閉じられるという感じがします。
ところで、イエス様が「手を上げて祝福された」とあります。一か月ほど前の聖書研究祈祷会で、ヨシュア率いるイスラエルがアマレクとの戦いに出ていたとき、丘の頂に立つモーセが手を上げている。その間はイスラエルは優勢なのだが、手が重くなって下ろしてしまうとアマレクが優勢になるという場面がありました。これではいけないとばかりに、アロンとフルがモーセの両側に立ってその腕を支えると、ヨシュアはアマレクに打ち勝つことができたという一つのエピソードがありました。
そのときに「牧師も祝祷のときに手を上げていますね」という話になりました。「あ、見ているんだ」と思いましたが、上げなければならないという決まりはないのです。まさかポーズを取っているわけでもありません。旧約では、手を上げるという行為自体に祝福するという意味があります。それでイエス様も手を上げられた。では、どのように上げるのか。片手か両手か、手のひらを上に向けるのか下に向けるのか、これも決まりはありません。ただし、祝福を求めた場合、掌は上を向くでしょうし、祝福を与えるという場合は、自ずと掌は下を向くと思います。また、片手だけを上げることに関しては、ドイツの悪しき時代を思い起こすので避けたいとする人もいます。
むしろ議論になるのが、誰が祝福できるのかという資格の問題です。補教師、伝道師の祝祷問題が議論されることがあります。名古屋教会もそうだったかもしれませんが、伝道師は祝祷できないという考え方は今もあります。こうしたことは教会の伝統にそって判断すべきでしょうが、少なくとも教団の法解釈からすれば、補教師ができないのは、聖礼典の執行、すなわち洗礼や聖餐の司式執行ができないという一点です。説教はもちろんできますし、結婚式や葬儀の司式もできます。わたしもそうでしたが、伝道師で主任として遣わされるケースもあります。結婚式や葬儀で祝祷できないのはさえない気はします。このことは、正教師按手は祝祷する権限を与えるためのものではないということを意味します。
極端な話として聞いていただくぼうがいいかもしれませんが、信徒でも祝祷はできるのです。CSで説教ができるのに、祝祷ができないというのもおかしな話ではないでしょうか。もちろん、祝祷することがはばかられるという気持ちは、分からなくはありませんし、その思いは健全だともいえます。しかしそうであるならば、CSの説教や証しするということを、祝祷すること以上に簡単に考えて欲しくはないのです。
わたしの場合は、聖書にある民数記のアロンの祝福と、第一コリント13章13節の三位一体の神の祝福を聖書の言葉通り読んでいます。神に祝福を求めているのではなく、聖書の言葉を拠り所として祝福を宣言しています。この言葉は讃美歌21やこどもさんびかにも出ているのです。これは明らかに誰でも言ってよいからです。大事なことなので、長老会やCSスタッフ会を経ずにいう話ではなかったかもしれませんが、CS礼拝に牧師がいない日もあります。祝福の言葉がないままではなく、祝福をもって、礼拝を終えるということを考えてもよいのではと思いました。
この祝福する姿のあるなしが、ルカによる福音書と使徒言行録の昇天時の記載の大きな違いだといえます。この祝福を受けたからこそ、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ」たのです。この「ほめたたえる」という言葉は、元々の言葉では50節、51節と同じ祝福するという言葉です。人間が神を祝福するというと、おかしい気がするので、ここでは「神をほめたたえていた」と訳されているわけです。
もう少し言うなら、ここで祝福するとか、ほめたたえると訳された言葉は、もっと単純にいえば「よい言葉を語る」ということなのです。そのよい言葉が、イエス様から発せられるときには祝福となり、弟子から発せられるときには賛美となる。これは難しい話ではないと思います。
今、世間を賑わす言葉の多くは、あまりよい意味の言葉ではないように思います。2、3年前に「親ガチャ」という言葉を聞き、その意味を知ったとき、背筋が凍りつくような思いがしました。聖書の言葉、教会で語られる言葉は、よい言葉です。愛の言葉、赦しの言葉です。イエス様は「祝福しながら彼らを離れ」とありますが、よい言葉を語りながら離れられたということです。説教しながら天に昇られたのです。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」とあります。伏し拝むとは礼拝するということです。御言葉の礼拝がなされたのです。
それにしても不思議なのは、弟子たちが「大喜びでエルサレムに帰り」とあることです。イエス様と別れたのです。普通別れの時は、悲しみをもたらすのではないでしょうか。涙を呼ぶのです。ところが彼らは、イエス様が目に見えなくなって悲しむのではなく、御言葉を受けたことで喜びに満たされたのです。エマオでの弟子たちが、イエス様だと分かった後で姿が見えなくなっても、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったように、皆の心の目が開かれ、心が燃えていたのです。それは華々しくも花火のように一瞬で消えるものではなく、炭火のようにじっくり燃え続けた。だから彼らも、絶えず「神をほめたたえていた」、よい言葉を語り続けたのです。
「よい言葉を語り続ける」には、よい言葉を体得しなければなりません。親ガチャではありませんが、子どもたちも悪い言葉を聞けば、悪い言葉をいつも使う子になってしまいます。その意味でもCS、教会教育は大切です。よい言葉を語るのです。それは福音を語るということです。福音は祝福であり、賛美でもあります。よい言葉に包まれた人生は、喜びとなります。
わたしたちは、足かけ5年半にわたって、ルカによる福音書を読んできました。回数は数えていませんが、おおよその数でいえば、120回以上、150回以内かなと思います。福音とは喜びの知らせです。ルカは喜びを知らせるために福音書を書き、その喜びの言葉をわたしたちは聞いてきました。わたしたちは祝福を受け続けてきたのです。説教を聞くと言うのは、御言葉を学ぶということではありません。学びを基準にすると、理解できたか、できなかったかが分かれ目となってしまいます。わたしたちは、ここでよい言葉を聞くのです。祝福を受けたのです。祝福を受けた人は、神に賛美をお返しする人となります。その営みが凝縮されているのが礼拝です。
そのような礼拝を続ける教会では、批判的な言葉は語られなくなります。わたしたちの舌が清められているからです。人を傷つける言葉を避けるようになります。そのような教会は慰めのほとりとなります。神の栄光を現わせる教会になります。わたしたちは、礼拝のたびに祝福と賛美に包まれてここから出で行くのです。大喜びで、それぞれのエルサレムに帰るのです。日曜日の午前だけでなくウイークデーも、御言葉と共に歩むようになります。いつも、神の御前に生きることができる。神を愛す人となり、隣人を自分のように愛せる人となります。終わりの日にいたるまで、インマヌエル、神と共に歩む人生を生きていくことができるのです。