詩編66編5~9節 ローマの信徒への手紙6章1節~11節
「新しい命に生きる」田口博之牧師
イースターおめでとうございます。安息日が明けて主が復活された朝です。キリスト教会が土曜日の安息日でなく日曜日の朝に礼拝するのは、イエス・キリストのよみがえりを記念するためです。その意味で、今日がイースターですが、毎日曜日は小イースターを祝っていると言っていい。先週までレントの40日間を過ごしていましたが、実際に数えると46日あります。なぜなら日曜日はレントに含めないからです。日曜日は喜びの日です。
普段の日曜日が小イースターだとすれば、正真正銘のイースターである今日は大イースターです。この日、一人の人の洗礼式を行えたことを感謝いたします。洗礼とは一体何でしょうか。洗礼式はキリスト教に入信する、キリスト者になることを公に表明する儀式です。召命には内的召命と外的召命があります。内的召命というのは、自分は神様を信じた。イエス様を救い主として受け入れるということです。ではそれで、キリスト者(クリスチャン)になったかといえばそうではない。それだけでは信仰が内面の事柄になってしまいます。外的召命があってこそ、キリスト者になる。それが洗礼です。プロテスタント教会に二つの聖礼典がありますが、第一の礼典が洗礼です。洗礼は神の出来事です。正規の手続きによってなされる洗礼を受けることで、キリスト者であることが公となります。隠れることはできません。赤﨑さんは、イエスは主であると、心に信じたことを口で公に言い表したことで、洗礼が授けられました。
イエス様がヨハネから洗礼を受けられたとき、天が避け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声が地に響き渡りました。罪のないイエス様がなぜ洗礼を受けられたのか、このことについて語る時間は、今はありません。ただ一つ言えることは、イエス様が洗礼を受けるということを大事にされたのです。
今日はローマの信徒への手紙6章1節から11節をテキストとして示されました。名古屋教会では特に利用しているわけではありませんが、日本基督教団には4年サイクルの聖書日課があります。4年サイクルですので、今年はマタイの年、マルコの年、ルカの年、ヨハネの年と、4つの福音書を中心に読み、それがイースターの福音書のテキストにもなるのですが、並行して読まれる書簡のテキストはどの年もローマの信徒への手紙6章3節から11節となっています。つまりこのテキストは、どの年のイースターでも聞くべき言葉となっているのです。
特に6章3節、4節は、洗礼の意味について、もっとも的確に答えていると言ってよいでしょう。皆さんも「洗礼とは何ですか」と聞かれたとすれば、この御言葉を読めばいいのです。パウロは洗礼について、こう答えています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
ここに三つのことが言われています。一つが、洗礼とは「キリスト・イエスに結ばれるため」であると言うのです。洗礼によってキリストにあずかる、キリストの中に入っていくように一つになるのです。二つ目、それは「キリストの死にあずかるため」と言っています。洗礼によってわたしたちは「キリストと共に葬られ、その死にあずかる」のだというのです。そして三つ目が、「キリストが死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」だと言っています。ここで、洗礼について死と生という、相反する二つのことが語られています。
洗礼において欠かすことのできないものがあります。それをただ一つ挙げるとすれば何か、お分かりでしょうか。信仰は欠かすことはできません。また洗礼を受ける人、授ける人も欠かすことはできません。でもそれらが揃っていたとしてもできないただ一つのものがあるのです。それは水です。ここに水がなければ今日の洗礼式もなりたたなかったのです。使徒言行録8章で洗礼を望んだエチオピアの宦官は、フィリポにこう尋ねました。「ここに水があります。洗礼を受けるために何か妨げがあるでしょうか」と。そこが水のあるところだったから馬車を止め、洗礼が授けられたのです。
洗礼にとって水が欠かすことの出来ないように、人は水なしで生きることはできません。水は命の源であり、生きるために欠かせないものですが、同時に水は命を飲み込む力があります。地震でも台風でも、被害が大きくなるときには津波や洪水が伴います。人間の体は1日何リットルもの水を必要とします。ところがほんのわずかな水が誤ったところに入り込んでしまうことによって、死にいたることがあるのです。
創世記において、神が最初になさったことは水を制御することでした。地が混沌であったのは、水の面を動く霊があったからであり、「光あれ」との言葉によってこれを抑えました。二日目には、「水の中に大空あれ、水と水とを分けよ」と言われたことで、乾いた地が現れました。神はこれを見て、良しとされたのです。
箱舟に乗ったノアとその家族、つがいの生き物以外はすべて洪水によって拭い去られました。この水が引いた後に、新しい世界と新しい命が現れました。神はもう滅ぼすことはしないと約束し。雲の中に虹をかけてくださいました。
それでも、水は脅威でした。先ほど読まれた詩編66編6節に
「人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った」とあります。ここに語られているのは、出エジプトのみわざです。讃美歌でも歌われたように、イスラエルの人々は紅海の水が二つに分かれることで大河を渡ることができました。しかし、追手であるエジプト軍は、元に戻った水に飲みこまれて死んでしまったのです。
わたしたちの教会でする洗礼式は頭に水を注ぐ滴礼という仕方ですけれども、元々は体を水に沈めるのです。それがバプテスマ、浸礼です。今もバプテスト教会と呼ばれる教会ではそうしています。水の中に沈むには、おぼれ死ぬことを表し、これによりキリストの死にあずかるのです。滴礼という仕方だと、汚れを清めることが強調されてしまいますが、事柄は同じです。洗礼によって私たちは、キリストと共に死んで葬られるのです。
しかしそれで終わりではありません。水の中から上がることで、死んだ人が新しい命に生きるようになるのです。イエス・キリストは三日目に復活されました。キリストの十字架の死にあずかったわたしたちは、キリストがイースターの朝、父なる神によって復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる者とされる。これが洗礼の意味です。
5節はそのことを、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と言っています。洗礼を受けることが、復活への出発点となるのです。
洗礼を受けていなくても、主を信じていれば心の平安は保たれるかもしれません。毎週教会に通っている人よりも、信仰深く歩むことができるかもしれません。そういう人をわたしも知っています。しかし、まことの救いは、洗礼という外的なしるしが必要なのです。そうでなければ、キリストと一つに結ばれることも、キリストの死と葬りにあずかることも、キリストが復活されたように、新しい命に生きることはできません。それがなければ、それは救いとは言えないのです。
洗礼は人生でただ一度きりです。自分は幼児洗礼だったから洗礼の恵みを覚えていないという人も、信仰告白をすることによって、新しい命を生きることが自覚できます。若い頃にあまり考えずに洗礼を受けてしまった。今ならキリストと結ばれる、キリストの死と復活にあずかるという意味も分かる。もう一度洗礼を受けたい。そういう人がいるかもしれません。でも、そんな必要はないのです。なぜなら、キリストの十字架の死と復活は完全だからです。世の罪がまだぬぐいきれてないからと、神さまが改めてイエス様を世に遣わし、十字架で死ぬということはあり得ません。次にイエス様が来られるときは、世の終わり、神の国が完成する時なのです。
プロテスタント教会に聖礼典は二つありとお話しました。第一の礼典は洗礼ですが、もう一つが聖餐です。洗礼が契約の聖礼典なら、聖餐は契約更新の聖礼典です。聖餐式の執行は教会によって様々ですが、名古屋教会では月に一度、契約更新の聖餐にあずかることができます。これを受ける人を現住陪餐会員と呼び、教会総会の議員資格を得ます。不在会員も教会員であることは変わりませんが、聖餐を受ける会員が現住陪餐会員として、教会員としての責任を負うのです。しかし、他教会員でも聖餐を受けられることにおいて、わたしたちの教会の聖餐は開かれています。閉じられているわけではない。洗礼を受けていない人は聖餐を取ることを控えてくださいと呼びかけているのは、取ったらいけないというよりも、そもそも契約をしていないので、契約更新とはならないからなのです。
毎月の聖餐がキリストに結ばれていることを感謝することとすれば、受難週とイースターの聖餐はとりわけキリストの死と復活にあずかることに重点が置かれている、そういう言い方ができると思います。復活のキリストは、エマオについた二人の弟子にパンを取り、感謝の祈りをして弟子たちに渡してくださいました。すると二人の弟子は、一緒に歩いて聖書の話を聞かせてくれたのが、イエス・キリストであったことが分かったのです。その瞬間、キリストは彼らの目に見えなくなりましたが、彼らは新しくされました。意気消沈することなく、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と言い、復活のキリストの証人として立てられていきました。
この後、キリストの死と復活を記念して聖餐を祝います。今日のローマ書のテキストは、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされた救いについて、洗礼だけでなく聖餐の意味もよく語られていると思います。6章6節以下を朗読します。
「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
古い自分、罪に支配された自分は、キリスト共に葬られたのです。わたしたちは死者の中から復活されたキリストに結ばれています。新しい人とされたならば、もはや自分のためではなく、神に対して生きる者とされたのです。洗礼を受けた人は救われています。イエス様の十字架と死が完全だからです。けれども教会につながり、とりわけ聖餐を受ける教会生活を続けていくときに本物のキリスト者となり得ます。自分が平安であることに満足するだけでなく、キリストがそうであったように、神と隣人と世に対して責任をもって生きていく者とされていくからです。そのように生きることを神は望まれているのです。