イースター礼拝
聖書 イザヤ書55章8~9節 ルカによる福音書23章56b~12節
説教 「死からのよみがえり」田口博之牧師
ハレルヤ、イースターおめでとうございます。2024年のイースター礼拝を大勢の方と共に祝うことができる恵みを感謝いたします。今年は早めのイースターで、年度末の3月31日に迎えることになりました。ところがこの暦は西方教会、すなわちカトリック教会、プロテスタント教会に通じるもので、ロシア正教会などの東方教会は、グレゴリウス暦でなくユリウス暦を用いていてズレが生じています。早めのイースターを迎える年はことにずれが特に激しく、日本のハリストス正教会でも、今年は5月5日にイースターを祝うようです。それは不思議なことであり、世界のすべての教会が今日イースターを祝っているわけではないとのです。戦争、戦闘状態にある国と地域のために、イースター休戦を祈っても、今日がイースター休戦にならないと思うと残念な気もします。
先週ロシアではテロが起こり、ウクライナとの緊張状態を増しています。NATOはウクライナを支援しているとはいえ、いろんな思惑が渦巻いているようです。イスラエルとハマスについて、国連は停戦を求めていますが、イスラエルのガザへの攻撃は続いています。停戦交渉が再開し一日も早く収束へと向かうことをイースターの祈りとしています。
さて、キリスト教信仰の核となるものが何かといえば、十字架と復活の信仰です。わたしたちのために、十字架に死なれたイエス・キリストは死からよみがえりました。復活の信仰のあるなしによって、教会は立ちもしますし、倒れもします。使徒パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言ったほどに、わたしたちの信仰の要となります。キリストの復活を信じることがなければ、わたしたちの信仰も空しくなってしまうのです。
けれども、復活の信仰に立つのは簡単なことではありません。復活と聞くと、信仰者であっても躓きを覚える方がいます。死者が生き返るなどということは、人間の常識では考えられないことだからです。「復活などと言わなければ、キリスト教も良い宗教なんだが・・・」と言う声を聞くことがあります。しかし、一方で思うことは、誰でも信じられることを信じたとしても、信仰とはいえない。信じられないことを信じるからこそ、それは信仰といえるのです。
聖書はイエス・キリストの復活について、二つの出来事によって語っています。第一の出来事は、イエス様が葬られた墓が空になっていたことです。第二の出来事は、復活されたイエスが人々にご自身を現されたことです。但しその二つとも、復活の証言ではありますが、復活を証明しているかと言えば、そうだとは言えないことも事実です。
第一の「空の墓」について言えば、 墓が空であったからと言って、復活を証明することにはならないことは誰にでも分かります。むしろ、ユダヤ人たちが言い広めたように、イエス様の遺体を弟子たちが盗んだと言ったほうが、納得しやすいし、信じやすいのです。
二つめの復活のイエス様が弟子たちに現れたということについても、物的な証拠として残っているわけではなく、あくまでも聖書の証言に過ぎないのです。けれども、そもそも聖書自体が、復活の信仰を持って書かれています。イエス様が現れたこと、これを顕現と言いますが、復活されたイエス様に出会った人は、だれもが恐ろしいと思ったのです。今日の箇所では、イエス様の顕現はまだありません。登場するのは、「輝く衣を着た二人の人」すなわち天使ですが、天使の顕現の際にも、空の墓を目撃した婦人たちは、恐れて地に顔を伏せたのです。
復活の出来事は、 証言があっても証明できないと言いましたが、むしろ証言されているということが大切です。現代の裁判でも、決め手となるのは証言です。あえて名前を伏せる必要もないでしょう。この一週間、大リーグの大谷さんのことが世界中を賑わしています。まだ裁判になっていませんし、今後も裁判になるかどうか分かりませんけれども、マスコミの情報を通して、世界のいたるところで裁判が起こっている気がします。ある人は弁護士のようにかばい、ある人は検事のように追及し、ある人は裁判官のようにこれはこうだと裁いています。それもこれも、通訳をしていた人(一平さん)が、最初の証言を覆したことで、様々な憶測が広がったのです。
多くの人が、大谷さんは知らないと言った二度目の証言に不自然さを感じているでしょう。最初の証言がほんとうのように思えるけれど、助けようとした大谷さんもとんでもないことになるのが分かってきて、証言を変えさせられたのではないか。それは考えやすいことです。しかし、実際は誰もが自分に都合のいいストーリーを考えるものです。一平さんもそのように考えたけれども、それでは、大谷さんにすごく迷惑がかかることを知ったので、前言撤回したとも考えられるわけです。けれども。その二度目の証言が真実かどうかも分からない。証言と言いましたが、マスコミがそう伝えているだけで、実際には聞いたわけではありません。わたしたちが聞いたといえるのは、大谷さんが自ら語った記者会見での言葉、それだけです。でも、本人が言うことですから、それは証言とは言い難いのです。複数の第三者の証言が重ねられていくことで、証拠もみつかり、真実へと近づいていくものです。
さて大谷さんモードから切り替えて聖書の話をします。はっきりしていることとして、イエス様が復活されたと証言している人は、一人や二人ではないということなのです。複数の福音書記者が、イエス様はマグダラのマリアをはじめとする女性たちに現れ、その後、弟子たちの前に現われたことを証言しています。複数の証言は証拠能力があります。パウロにいたっては、ケファに現れ、その後12人に現れ、次いで500人以上の兄弟たちに現れ、最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れましたと、語っています。それほどの証人がいるとすれば、復活があったかなかったと問われたら、あったと考えるほうが自然です。それでも認めたくない人はいるでしょう。憲法では信教の自由が保障されていますが、何を信じても自由ですし、信じない自由もあるのです。はっきり言えることは、聖書はイエスさまが復活されたという複数の証人の証言を残しているということです。しかもそれは、信仰の問題として信じるしかない事柄なのです。
それでもなお、証拠とか証明にこだわるとするならば、二つのことを挙げることができます。一つは教会の存在です。イエス様の復活がなければ、聖霊が降ることもなかったですし、キリスト教会が誕生することはありませんでした。イエス様が十字架の死で終わっていたならば、 弟子たちの思い出にとどまるしかなかったのです。イエス様が復活されたことで、弟子たちが再び集められて、彼らのいるところに聖霊が降り、教会が誕生しました。その後、教会はイエス・キリストの十字架と復活を宣教の中心としました。これを信じる人々の群れは、2千年経った今も全世界へと広がっています。それは復活されたイエス様が、今も生き続けておられるからです。
第二は、教会が日曜日に礼拝をささげていることです。今日のテキストですけれども、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とあります。「週の初めの日」とは、日曜日のことです。信仰者でも、明日になると「今日の礼拝」のことを、「先週の礼拝」と言うことがありますが、それは間違いです。土曜、日曜をウィークエンドと呼ぶこともあり、ビジネス手帳では日曜日が土曜の次に来ることが多いと思いますが、それは便宜上そうしているだけです。ほとんどのカレンダーが日曜日から始まるように、日曜日が週の初めの日です。ユダヤ人の安息日は土曜日ですが、キリスト教会が日曜日に礼拝しているのは、イエスさまが復活されたのが週の初めの日、日曜日だからです。このことにより、キリスト教はユダヤ教の分派とは見なされなくなりました。わたしたちが、日曜日に礼拝しているのは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という十戒に刻まれた律法の精神を大切にしつつ、イエス・キリストの復活を喜び記念するためなのです。
さて、今日のテキストでポイントとなるのは、空の墓の目撃者であった複数の女性たちが最初の復活の証人となったことだろいえます。彼女らは、10節によれば、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」です。でも彼女たちは、この時点ではイエスさまと直接には出会っていません。だのにどうして、イエスさまを見なかった彼女たちが、復活の証人となりえたのでしょうか。
彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に行きました。その目的は、イエスさまの遺体を手厚く葬るためでした。十字架の死から埋葬までは大急ぎでしたので、準備の時間がなかったのです。ところが、墓に着くと、大きな石は墓のわきに転がされ、墓の中にイエスさまの遺体はありませんでした。彼女たちは、すべきことができず、途方に暮れるしかなかったのです。
すると、そこに輝く衣を着た二人の人、すなわち天使たちがそばに現れて「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と彼女たちに言いました。彼女らを叱ったと言ってもよいでしょう。彼女たちがお墓の中のイエス様を捜したのは、遺体に香料を塗るためであり、イエスさまが復活されるとは考えてもいなかったからです。彼女たちの行為は、十字架につけられる前に逃げてしまった男の弟子たちと比べると、誉められていいものですが、神さまの目から見れば、物足らないものだったのです。
二人の天使は「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と言いました。この言葉は、イエス様が三度繰り返された受難予告の言葉です。イエス様は、十字架で死んで終わるのではなく、三日目に復活することも予告されていたのです。
彼女たちは、天使の言葉を聞いたことで、イエスさまが死と復活を予告されていたことを思い出しました。彼女らは、主がおっしゃったとおりのことが起こっていることに目が開かれて、イエスさまの復活の証人とされたのです。
墓が空になっていたことは、憎しみも妬みも暴力さえもイエス様を滅ぼすことはできなかったことを意味しています。イエス様の復活によって墓に葬られたのは、罪と闇の力のすべてですが、彼女たちが墓の中にいるはずのないイエス様を探している。そんな彼女たちが叱られたということを、わたしたちは知る必要があります。
何かのきっかけで、かつて聞いた御言葉を思い出すことがあると思います。以前に聞いたときはよく分からなかった。右から左へと通り抜けていったと思っていた聖書の言葉が、はっきり分かるようになるという経験をすることがあります。わたし自身も、挫折しうめいていた時に、かすかな光が射した。その瞬間に、かつて文字で読んでいた言葉が、立ち上がってくるという経験をしました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。いくつかの御言葉が迫ってきて、その言葉が聖書のどこにあったかを捜したことを覚えています。それはわたしにとっての聖霊体験であり、御言葉体験でした。復活の主は、そのような形で御言葉を通して、わたしたちに出来事を起こしてくださいます。
彼女たちと対照的なのが男の弟子たちでした。11節に「使徒たちは、この話がたわ言のよう に思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。後に使徒と呼ばれる弟子たちですが、ここではイエスさまの言葉を思い出すことがなかったのです。それゆえに、彼女たちの話のすべて、墓が空になっていたことも、御使いが現れたことも信じることができませんでした。かろうじて、ペトロ一人が、このことを確かめようとして墓に走りました。午後の墓苑礼拝では、このペトロの行動についても考えたいと思っています。
しかし大切なことは、この時には信じられなかった弟子たちが、信じる者とされていったということです。理由はただ一つ、イエスさまが本当に死からよみがえられたからです。そのことを証言するために、最初のイースターから2千年たった今も教会は建っており、復活の主の福音を宣べ伝えています。
わたしたちは、聖書の言葉をキリスト教という思想とか、昔からの大切な教えとして聞くのでなく、今も生きておられる復活の主の言葉として聞くのです。言葉となられたイエスさまは、今日もわたしたちと出会われ、それぞれの人生を導いてくださいます。
2024年3月31日、年度末の最後の日となったイースターです。明日から始まる2024年度はイースターのない年となります。しかし、わたしたちは復活の主に押し出されて新しい年度を歩んでいきます。どのような困難があっても、復活の主が共にいてわたしたちを励まし、導いてくだり、希望を抱いて生きていくことができるのです。