詩編31編1~7節 ルカによる福音書23章44~49節
「第七の言葉」田口博之牧師
四つの福音書には、イエス様が十字架の上で語られた言葉が合わせて七つ記されており、「十字架上の七つの言葉」と呼ばれることがあります。ハイドンやシュッツがこれをテーマに作曲しています。昨日は、ハイドンの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」の演奏をYouTubeで聞き流しながら執務にあたっていました。ハイドンは元々、管弦楽曲として作曲したようですが、弦楽四重奏の演奏やオラトリオ版もあります。
ところで、十字架上の七つの言葉とはいったいどの言葉を言うのでしょう。確かめたことのある人はそれほど多くないかもしれなにので、少し話をしますと、ルカとヨハネが三つの言葉を残し、マタイとマルコが一つの言葉を残しています。であれば、足すと八つあるように思いますが、マタイとマルコは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という同じ言葉を残したので、これを一つと数えます。十字架の上で語られた順でいえば、それは第4の言葉となります。
ヨハネが残した三つの言葉は19章26節から30節に集中しています。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です」が、第3の言葉であり、28節の「渇く」が第5の言葉、30節の「成し遂げられた」を第6の言葉として数えられています。
すると第1、第2、第7の言葉が残ることになり、これをルカが書き記したことになりますが、第1と第2の言葉は先週の礼拝で聞きました。ルカによる福音書22章34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これが第1の言葉です。第2の言葉は43節、イエス様が一人の犯罪人を向いて語った「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」がそうです。そして先ほど読まれた46節「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」これが第7の言葉となります。今日はこの言葉に集中したいと思い、説教題も「第七の言葉」としました。
YouTubeで聞き流していたと言いましたが、概ねどのバージョンも序章に始まり、七つの言葉に相当する7つの合唱が入り、最後にマタイが記しているイエスの死によって起こった地震を組み込んだ演奏になっています。日本の合唱団による演奏もあり、合唱部には日本語の訳も出ていましたので、第7の歌詞については、急ぎ書き留めてみました。
「あなたの御手に、主よ、わたしの霊をゆだねます。
今や、彼の苦しみがこれよりも高まることはありません。
今や勝利を得て、高らかに言われるのです。
「お受けください、父よ、 わたしの霊を。
あなたにわたしの霊を御手にゆだねます」と。
そして頭を垂れて、息を引き取りました。
わたしたち人間への愛ゆえに、彼は罪人として 死なれたのです。
あなたはわたしたちに新しい命を与えてくださった。
わたしたちは何を差し上げることができるでしょう。
あなたの足もとにわたしたちはひれ伏します。
イエスよ、深い感動に満たされたわたしたちの心をお受けください。
あなたの御手に、ああ主よ、わたしの霊をゆだねます」。
もの悲しさを帯びながらも明るい曲調として演奏されていました。皆さんはイエス様は、どういう思いでこの第7の言葉を言われたと思われるでしょうか。ゆだねるというのですから、父なる神に信頼しての言葉であるに違いありません。自分の命を丸ごとお預けする、それが御手にゆだねるということでしょう。
一昨日は幼稚園の卒園式でした。年度途中に転勤で二人転園し、12人の子が巣立ちました。就園前から通っている子も多かったので、あらためて大きくなったなと思いました。幼稚園の子と遊んでいるとき、大きく手を広げていると、ラグビーのタックルをしてくるかのように捨て身でぶつかって来る子がいます。卒園近くになると、その力を受けとめるのはなかなか大変です。
でもあるとき思いました。わたしがもっと痩せていてひ弱そうであれば、あるいは杖をついていればそんなことはしてこない。性差の話をしたいからではありませんが、男性だからということはあると思います。子育てをしていた時代を振り返っても、母親に対してはぶつかっていくようなことはしなかった。この人ならしっかりと受け止めてくれるという予測をしていると思うのです。あわよくば倒してやろうというチャレンジ精神も芽生えているかもしれませんけれども、信頼していなければ、捨て身でゆだねることはできません。イエス様は、父なる神への絶大なる信頼をもって、死を前にして「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われたに違いないと思います。だからこそ、わたしたちは愛する家族を天にいます父なる神の御手にゆだねることがでる。
ところで、この「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉ですが、実はイエス様独自の祈りではないのです。今日は詩編31編を合わせて読みましたが、6節に「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」とあります。
この言葉は当時のユダヤ人が、1日のわざを終えて床に就く前の祈りとしていたと言われています。イエスも幼い頃から、「おやすみなさいの祈り」としてこの言葉を覚えていたのではないでしょうか。マリアの御腕に抱かれながら、この祈りを聞き、それが子守唄になっていたかもしれません。わたしも幼稚園のころでしょうか、寝つきの悪い子で、母親がいろんな子守唄を歌ってくれたことを、歌詞も含めて覚えています。イエス様の場合、幼い頃に覚えた眠りにつく前の言葉が、就寝前の祈りとなり、まさに地上の命を終えて眠りに就く前の最後の言葉になりました。
しかし、詩編の言葉との違いもあるのです。詩人は「まことの神、主よ」と呼びかけますが、イエス様は「父よ」と呼びかけています。イエス様は弟子たちに祈りを教えられるとき、「父よ」と祈るように教えられました。わたしたちも神さまの子どもであることを、祈りによって教えてくださったイエス様です。十字架にかけられる前のオリーブ山でも、「父よ、御心なら」と祈り、十字架の上でもまた「父よ」と祈ることができる。死を前にしても、父と子との関係が失われることはなかったのです。
だからでしょう。詩編31編の詩人は「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と言った後で、「わたしを贖ってください」と祈りましたが、イエス様はこの言葉を加えていません。贖うという言葉は、罪と密接なかかわりがある言葉です。でも、イエス様は「わたしを贖ってください」と祈る必要がなかったのです。十字架で犯罪人として死ぬにもかかわらず、そういう必要がなかった。なぜなら、イエス様には罪がなかったからです。イエス様ご自身が、罪人の贖いとなるために死なれた。その意味で、詩編の詩人の祈りを越えた。ヨハネが書き留めたように「成し遂げられた」のです。御自らが贖いの供え物となることで、律法の完成者となられたのです。
この出来事を見たローマの百人隊長が告白します。「本当に、この人は正しい人だった」。百人隊長が言った「正しい人」とは、ファリサイ的な律法を正しく守るという意味での正しさではありません。百人隊長は律法を知らないのです。イエス様は、律法に逆らうようなふるまいをしたともみられましたが、律法を正しく実践されたただ一人のお方です。「神を愛し、隣人を愛す」に言い尽くされる律法を、十字架で死ぬことによって完成したのです。
このローマの百人隊長の告白ですけれども、マタイやマルコは「本当に、この人は神の子だった」と証言しています。わたし自身は、ルカが「神の子」ではなく、「正しい人」と告白したことにどこか物足りなさを感じていました。なぜ、十字架の死を見て「正しい人」と言ったのかと。
聖書の言う「正しさ」とは、「義」という言葉で表されますが、義という言葉は関係概念だとお話してきましたが、正しい関係にあることを前提としています。人間は罪により神との関係性を壊してしまい、神の御前に義と見なされなくなったのです。その状態で「神の義」が執行されれば、ルターが恐れたように人は裁かれてしまうしかありません。そうならないために、神は御子を十字架で裁いたのです。十字架は神の義と神の愛が出合うところです。しかし、贖いの供え物となるには、旧約では傷のない小羊がいけにえとなったように、罪があっては贖いとはなりえません。つまりまことに正しい人であるイエス様でなければ、他の誰かではダメだということです。
わたしは、このように告白した百人隊長は、イエス様の服を分け合ったり、酸いぶどう酒を突き付けて侮辱していた兵士ら100人をまとめていた部隊長のことですが、不思議な思いでイエス様のことを見ていたのではないかと想像するのです。彼はピラトがそう思っていたのと同じように、イエス様には罪がないことを見抜いていた。ところがイエス様は何の弁明もされなかったのです。なぜ、この人が十字架で死なねばならないのか、もやもやした思いを持っていたのではないでしょうか。しかし、十字架上での言葉を聞いてはっきり分かったのです。ああこの人は、本当に正しい人だった。まさに罪のない人であることを確信したのではないです。だから彼は、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。神を賛美礼拝したのです。
ハイドンの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」をYouTubeで聞き流していたと言いました。聞き流しながら説教原稿を打っていたということなのですが、思わず原稿を打つ手が止まったときがありました。ソナタとソナタの間に、本物ではないように思いますが、牧師のようなガウンを着た福音史家が聖書の言葉を朗読します。ある演奏の時で、朗読というより、そこまでするかと思えるほどの表現で聖書を読んだので、思わず手が止まったのです。
あまり真似したくないのですが、46節を言えば、「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」
おいおい、と思いながら聞いたあのですが、実はそれで発見したのです。これまで、イエス様は安らかに静かに祈るように「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われた。そんなイメージを持っていました。しかし、確かにルカは、「イエスは大声で叫ばれた」と記しているのです。
この第七の言葉は、マタイ、マルコが記した「わが神、わが神、なぜわたしを思捨てになったのですか」という第4の言葉と対照的に捉えられてきました。第4の言葉は、イエス様の絶望を示しているからです。しかしルカは、安らかな信頼を語っていると。しかし、ルカもまた「大声で叫ばれた」と記録したのです。叫ぶとは、そもそも大声でするものですが、あえて「大声で」と書いてあることから、まさに大声で叫ばれたのでしょう。
葬儀でご遺族のお話を聞くときに、「最後は苦しまずに安らかでした」と、ほっとするように言われることがあります。苦しかった闘病生活を続けていたけれど、最後は安らかに息を引き取って神のみもとに迎えられる。それが慰めとなることはよく分かり、よかったですねと答えます。しかし、悲しいかなそうならない最後を迎える人もいるのです。では、そのように死んだ人に慰めはないのかといえば、決してそんなことはありません。イエス様も大声で叫んで息を引き取られたのです。しかもこのとき、昼の12時頃だったのに、「全地は暗くなり、それが3時まで続いた」、「太陽は光を失っていた」と書かれてあります。神の支配が行き届かない。創造の秩序が失われるほどの状況が起きていたのです。
それは人の目には、絶望的としか思えません。でも、そのような死さえも、イエス様は担ってくださったのです。しかし、大声で叫ぶことによって、全地を覆っていた闇を取り払わってくださったのです。百人隊長は、イエス様の言葉を聞いただけでなく、ここで起こった出来事すべてをご覧になって「本当に、この人は正しい人だった」といって、神を賛美しました。わたしのために死んでくださったことが分かり、十字架で死なれたイエスをキリストと信じ礼拝したのです。
彼だけでない。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」のです。その中には嘲っていた群衆もいたでしょう。ノー天気に見物していた群衆もいたでしょう。彼らも十字架の目撃者となり、胸打たれたのです。中には悔い改めた人、賛美しながら帰って行った人もいたと思います。
そして「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と記されています。十字架の近くに行けなかった人たちです。逃げ出した弟子たちも、気になって遠くに立って見ていたのです。ガリラヤから従って来た女性たちは、この出来事の後で十字架のイエス様に近づくことができたのです。イエス様の遺体が十字架から降ろされ、ヨセフの墓に葬られることを確認し、遺体に塗る香料と香油を用意し、復活の第一の目撃者となったのです。
イエス様が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで死なれたことで闇は吹き払われ、新しい世界への幕が開いたのです。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とはそのことを示します。神が開いてくださったのです。
わたしたちはいつ地上の命を終えることになるか分かりません。死を考え始めたら恐れが支配します。しかし、いつ、どのような死を迎えたとしても、イエス様の十字架によって死の意味はすっかり変わってしまったのです。イエス様が十字架で、わたしたちが受けるべき裁きを引き受けてくださったことで、わたしたちの死は滅びではなくなりました。しかも陰府に下られたイエス様は、三日目に復活されたのです。そこに希望があります。十字架と復活の信仰に立つ人は、死が死では終わらない究極の希望を持って、生きていくことができるのです。