イザヤ書4章2~3節、ルカによる福音書10章17~24節
「喜びの根拠」 田口博之牧師
年が改まり2021年の最初の礼拝を皆さんと共に始められることを感謝します。新しい年の歩みを始めるにあたり、ここでは聖書に記された主の言葉を挨拶としてお贈りしたいと思います。コリントの信徒への手紙一1章3節です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」これは、平和の挨拶です。昨年の年始の礼拝でも、この聖書の言葉を挨拶としました。しかし、去年の正月とは違った響きに聞こえます。「キリストからの恵みと平和」を心から求めます。
昨年わたしたちは、これまで知らなかった新しい経験をしました。新型コロナウイルスは、COVID19と呼ばれるように2019年にはすでに発生が確認されていたのですが、当初はサーズやマーズがそうであったように、重症肺炎を引き起こす恐ろしい伝染病と認識しつつも、いつしか収まるだろうと思っていました。わたしたちの生活にこれほどの影響を及ぼすことになるとは、誰も想像していませんでした。大型客船ダイヤモンド・プリンセスの乗客に感染者が確認されたのが2月1日だったと思います。横浜港に停泊しているけど乗客が下船できない。気の毒なことかと思いつつも、その時点でも自分たちの問題としてはとらえていませんでした。東京オリンピックが、まさか出来なくなるとも思っていなかったでしょう。
わたしたちは、コロナの問題について言えば、この状況はもうしばらく続くと予測しています。外出を控える、人と会うこと、特に誰かと食事をすることをなくさない限り、感染者が減っていくこともありえないでしょう。マスクをつけてくださいと、いちいち声をかけることもなくなってきました。問題が発生して10カ月が経って、それだけのことを学んできたのです。今年、東京オリンピックはやると言っていますが、日本は金メダルをいくつ取れるかなど、誰も予想していません。多くの人がやれないだろうと思っているので、あまり話題にもなりません。日本がやめて欲しいということが待たれている気もします。ワクチンが急がれているものの、これが特効薬になり得るとも、あまり考えられてはいないのではないでしょうか。
そのような予測を立てつつも、実際にどうなるかはよく分かりませんし、予測を超える事態が起こることもあり得るでしょう。先は分からないことを認めつつ、リスクの少ない仕方を選び取ってゆくと共に、何かが起こったときに、落ち着いて最善の対処をしてゆく知恵を求めたい。コロナの問題以外でも、いつ大規模災害に襲われるかもしれないし、何があるか分からないのです。心強いのは、わたしたちが求めるよりも先に、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈られていることです。ここにこそ大きな平安があります。
2021年最初のテキストは、イエス様が伝道へと遣わした72人が遣わされたところから帰って来て、喜びに満ちた伝道報告をするところから始まっています。彼らはこう言うのです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」彼らが思っていた以上の成果があったということです。
伝道へと遣わされた彼らは、何も喜び勇んで出かけたわけではなかったと思います。イエス様はこう言われました。10章4節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」彼らは厳しい旅になることが分かっていました。ところが、心配とは裏腹に、彼らは成果を挙げることができたのです。悪霊を追い払うという業は、神の支配を現せる目に見えるしるしです。
興味深いことに気付きました。1年前の新年最初の礼拝で聞いた御言葉は、ルカによる福音書9章1節から6節、そこでは12人の使徒たちの派遣が語られています。その時にイエス様は、「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けに」なったのです。ところが、72人を派遣するに際して、悪霊に打ち勝つ権能を授けたとは記されていないのです。彼らは、イエスの名前を使いながらも、ああ、自分たちにも使徒たちと同じ力が授けられたと思い、喜んだのではなかったでしょうか。そんな弟子たちを見たイエス様は「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と言われるのです。72人は喜んで報告しましたが、いったい何を見て喜んでいるのかと、喜びの根拠を問うのです。
彼らは「お名前を使うと」と言っています。自分たちの力を誇ったのではありません。だとしても、悪霊が退散したことだけを見て喜んでいるとすれば、それはとても危険なことなのだと、言われるのです。十戒に「主の名をみだりに唱えてはばらない」とありますが、それは主の名前さえ出せば、すべて自分の思ったとおりになるという考え方への戒めです。イエス様は「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われました。しかし、自分たちの願いを叶えるために、主の名を持ち出すとすれば、それはどうなのでしょう。逆にいえば、主の名を出して思い通りに行かなかったとすれば、そんな神なら役に立たないと捨ててしまうことにはなりかねません。
だからイエス様は、「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」と言われ、「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われるのです。本当に喜ぶべきことは、地上で起きていることではないということです。わたしたちの周り、地上で起こることにはいいこともあれば悪いこともあります。そこで一喜一憂するのではなく、イエス様はわたしたちがどこに目を注げばよいのかを教えています。見つめるべきは、目に見える出来事の背後で働かれる天にいます父なる神です。「あなたがたの名が天に書き記されていること」、神に覚えられていることを喜びなさい。そこにこそ、喜びの根拠があると言われるのです。
イエス様は、本当に喜ぶべきことは何かを語っているうちに、ご自身のうちに喜びが溢れてきました。聖霊に満たされて「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と、喜びの賛美を捧げるのです。イエス様が喜びにあふれたのは、神の御業が、知恵のある者や賢い者にではなく、何も分からない幼子のような者を通して表されたことでした。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と喜んでいる人々。その喜び方は警戒すべきものなのですが、イエス様は幼子のようにぬか喜びしている者たちに主の栄光が現わされたことを喜んでおられるのです。
わたしたちは、分からないこと、隠されていることを知るために学びます。神に関する知識についても、学ぶことで知識が積み重ねられていくと考えます。聖書を学ぶことによって、次第に分かってくるのではと考えるのです。そして洗礼についても、ある程度のことが分かったことで考えればいいのではないか。そのように思われる方が多いのではないでしょうか。
あるいは、信仰生活を重ねていても、聖書やキリスト教について、自分は分かっていない、祈りも上手くできない。学びが不十分であるということが気になってくるという方もおられるのではないでしょうか。わたし自身のことをいえば、高校1年の秋に初めて教会の礼拝に出席し、半年後のイースターに洗礼を受けました。特に勉強をしたこともありませんでした。当時は高校生会が盛んでしたが、話をしていると自分は周りと比べて、聖書の知識がないことに気がつきました。たとえば、CS育ちの人は、洗礼を受けていなくても、「よいサマリア人のたとえ」とか、「放蕩息子」、「ザアカイの話」と聞くと、ピンと来ます。でも、わたしは、ほとんど知りませんでした。これで洗礼を受けてよかったのか、と後悔し始めました。
教師となったときも、教師試験にどうにか通った後、金城教会の礼拝に無任所教師として出席するようになりました。教会員から「先生」と呼ばれながらも、そのように呼ぶ会員の多くはベテル聖書研究も体験していて、わたしよりはるかに聖書のことを知っています。こんなことでいいのかと思いました。聖書の勉強は、牧師になってからでしたが、コンプレックスをずっと抱えてきました。
昨年、還暦を迎えました。一巡りしたところで、赤ちゃんに戻る、赤いちゃんちゃんここそ着ませんでしたが、人生を振り返ることをしました。こんな話をすると、贅沢な悩みとして聞こえてしまうかもしれませんが、振り返ってみたときに、わたしは小さいころから、自分で自分を評価するよりも、周りからの評価のほうが高いほうが多かったことに気付かされました。他人からの評価を得ようとするのではなく、評価される自分に追いつこうと生きてきた気がしたのです。
でも、いつまでたってもそのようにはなれません。その意味で「知恵ある者や賢い者」にはなれず、「幼子のような者」としてずっと生きてきたと思わせられています。でも、そのような者であるからこそ、イエス様は選んでくださったとすれば、これ以上の感謝はありません。自分ではなく神を誇り、神の栄光を表せる者として用いられたとすれば、これ以上の喜びはない。そのように思っています。
今週も教会史の編纂委員会が行われます。何と22回目の委員会です。上手く行けばですが、今月24日には「教会史」を皆さんにお配りできると思っています。これまでの委員会の中で話題になったことの一つに、中京教会から銀座教会に転任された高橋先生が寄せてくださった「発刊によせて」の一文がありました。
高橋先生の文章の半分は、今日与えられているルカによる福音書の説教です。次のように説いています。「派遣された七十二人は、『喜んで帰って来た』。彼らの伝道の手応えは、『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』であった。しかし、主イエスは、冒頭に記した言葉を七十二人に語られた。すなわち『悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』と語られた。ぬか喜びの弟子たちは、主イエスの御前に立たされていることに気付かされた。彼らが主イエスの御言葉を心に刻み、神の喜びを教会の喜びとし、信仰者一人一人の喜びとなっているか吟味しなければならない。神による伝道の戦いに参与する中で、私たち一人一人の名が天に書き記されていることを名古屋教会が喜ぶ日を迎えている。皆さんの名が天に書き記されていることを信仰をもって深く受け止め、懺悔と感謝をもって、この奇跡を喜ぼう。罪人でしかないこの私の名が天に書き記されていることを感謝と賛美をもって受け止めようではないか」。そう言って、「名古屋教会の上に、更なる祝福を祈らずにはいられない」と祝福を送っています。
高橋先生は、「名古屋教会百周年に続く教会史が、どのような視点から記録されるか」に関心を示しながら、説教を通して、教会史を手に取るわたしたちが、どこに眼差しを向けてこれを読むかに注意を向けているのです。100年史以降の36年の間に、地上の目に見える教会では様々な営みがありましたが、わたしたちが眼差しを注ぐべきは、教会の営みの背後で働かれる天にいます父なる神です。神が罪人でしかないわたしたちを神が用いてくださり、一人一人の名を天にある命の書に記してくださっている、神に永遠に覚えられていることにこそ、何ものにも代えがたい喜びがあることを。
今から与る聖餐は、天において神と共にいただく食事の先取りです。わたしたちの名が天に記されていることの目に見える「しるし」として備えられたものなのです。
イエス様は23節で、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われました。年末礼拝で聞いた「不幸だ」(ウーアー)に対し、新年礼拝では「幸いだ」(マカリオイ)の御言葉を聞くことになりました。ではこの言葉は、イエス様が直接に向き合っている72人に向かって、言われた言葉なのでしょうか。そうではないようです。イエス様は、「あなたがたの見る目は幸いだ」ではなく、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われています。これは「72人の弟子たちが見ているものを見ることができるあなたがたの目は幸いだ」。今、この御言葉に聴くわたしたちへの言葉として受け取ることができないでしょうか。わたしたちは、イエス様を直接見ることはできませんが、弟子たちが相対しているイエス様と、イエス様が指し示したものを心の目(霊の目)を通して見ることができます。
2021年が始まりました。はじめにお話したように、予測の立たない時代に生きています。地上では予測できないことが多々起こりますが、天を見上げる目を持つことができれば、振り回されることはありません。すべてのことがイエス様に知られているのです。わたしたちの名は、すべてを治めておられる方に永遠に覚えられています。天にその名が記されていることを幼子のごとく喜びましょう。またその名が記されることを求めて、1年の歩みを始めてまいりましょう。