詩編51編1~5節 ルカによる福音書22章54~62節
「あなたもやり直せる」田口博之牧師
古代のキリスト教会の指導者にアウグスティヌスという人がいます。古代ラテン教父として、神学者、哲学者、説教者としても著名で、現代でも大きな影響を与えている方です。
アウグスティヌスは46歳の時に、自分の半生を振り返り『告白』という本を出しました。この書物は日本でもよく読まれましたが、太平洋戦争前は『懺悔録』という書名で出されました。アウグスティヌスは、過去の自分が罪深く、どれほど道徳にはずれた人生を送ってきたかを述べています。しかし、アウグスティヌスは、犯した罪が重くのしかかり、陰鬱な思いでこの本を書いたのではありません。むしろ、これまでの自分の罪を十字架の主が赦してくださったことを確信するがゆえに、罪を告白し、神の恵みを語るのです。信仰者にとって、罪の告白は、懺悔から賛美につながります。その意味でもこの本は、「懺悔録」ではなく「賛美録」と呼べるものです。
今日の新約聖書のテキストは、ペトロの否認の記事ですが、これもペトロの罪の告白です。しかし、ペトロが罪から立ち上がることができたことは、言うまでもありません。ではペトロの罪は誰かの密告によって明らかになったのでしょうか。
昨日「チコちゃんに叱られる」を見ていました。その中に、人がうわさ話を好きなのは、生き残るためだと言っていました。たいていの人はうわさ話が好きです。率直に楽しいからです。それは人間の罪としか言えないことですけれども、うわさ話が好きなことは脳科学から明らかなようです。チコちゃんの番組に脳波を測る機械が出てきました。これを頭につけると、自分に関心のない話を聞いても頭の中は青いけれど、興味がある話を聞くと赤くなっていました。皆さんの脳は今、どうなっているでしょうか。
人をおとしめるような話を聞いたりしたりしている時にはアルファ派が分泌し、脳の中が真っ赤になっていました。そういう話をしている時は自分を安全地帯に置くことができるからです。だから長生きできる、そういう論理だったと思いました。確かに、他人のうわさ話に花を咲かせている限りは、自分の身は守られています。だから、どれだけでも続けることができる。
ではペトロの罪は、うわさ話として広がったから聖書に記録されたのかといえば、そうではありません。ペトロは自分の罪として告白したのです。なぜ、告白できたのでしょう。自分にとって恥でしかないことです。誰かがそれを聞けば、自分をおとしめる格好の材料になるにも関わらず、わざわざ自分からしたのです。なぜ、そうすることができたのか。それが今日のテキストを読み解く鍵となります。
今日は旧約のテキストにも時間を割きたいと思います。詩編51編はダビデの悔い改めの詩編として知られていますが、これはペトロの罪以上に重く、ダビデからすれば隠しておきたい出来事が背景となっています。1節と2節には小さな字で、「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と書かれてあります。いわゆる「バト・シェバ事件」です。サムエル記下の11章に12章に記されたことが、詩編51編の背景となっています。
「ダビデがバト・シェバと通じた」とは、ダビデが不倫をしたということです。バト・シェバは、ウリヤという人の妻でした。ウリヤは戦地に出ていましたが、その間にダビデは美しいバト・シェバに目を留め、召し入れたのです。彼女はダビデの子を宿しました。ウリヤは王に忠実な兵士でしたけれども、何とダビデは、ウリヤを「激しい戦いの最前線に出させた後、彼を残して退却し、戦士させよ」という命令を出したのです。
すると、ダビデの思い通りに事が運びました。しかし、この時もダビデは、悪いことをしたとは思っていませんでした。イスラエルの王という権力の座に就いていたのだから、そのようなことは許されると思っていたのでしょう。しかし、それは主の御心に沿わないことであり、主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わします。ナタンはダビデが気づいていなかった罪を明らかにしました。
その時の、ダビデの思いを告げているのが詩編51編です。今日はその初めの部分だけを読みました。3節と4節を朗読します。
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください
わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(3-4節)
ダビデが罪の赦しを願っていることが、ぬぐう、洗う、清めるという言葉から分かります。これらの言葉は、もう少し先の、9節にも出てきます。
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。」
また11節には、「わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。」とあります。
このとき、ダビデは律法の根本である十戒の二つの掟、「姦淫してはならない」と「殺してはならない」という二つの掟に背きました。一つ嘘をつくと、一つでは済まずに更に嘘を重ねてしまうように、一つ罪を犯すと、さらに罪を犯すことになります。その罪は自分では消すことができません。
5節に「あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」とあります。
ナタンの叱責を受けたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」と言いました。ダビデの犯した罪は、直接にはバト・シェバに対してであり、ウリヤに対してです。しかし、隣人に対する背きは、主に対する背きです。イエス様は、最も重要な掟として、「神を愛し、隣人を愛する」という二つを言いました。この二つは決して切り離すことはできないからです。
ヨハネは第一の手紙の中で、「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見えない兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と言いました。
ダビデはバト・シェバを愛したつもりでしたが、それは自分都合の愛でしかありませんでした。自分さえよければという愛は、他者を殺します。それを典型的に物語ったのがバト・シェバ事件です。けれども、真の愛はそれとは真逆。自分が犠牲になることで、人を生かすのです。それを完全な形で表しているのが、わたしたちの罪をすべて背負って十字架に死なれたイエス様の愛です。
ダビデの罪は、ペトロ以上です。しかし、「わたしは主に罪を犯した」と告白したダビデに対してナタンは、「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と言い、罪の赦しが約束されました。「しかし、主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」とも言われます。バト・シェバのお腹の子は主が取られたのです。罪は赦されても、罪の代償は大きく、ダビデは崩れ落ちました。詩編51編は全体を通して、ダビデの切なる悔い改めの心が表れています。
聖書を読んでいてすごいなと思うのは、イスラエルの理想的な王とされているダビデのとんでもない罪を、隠すことなく打ち明けていることです。誰かがダビデをおとしめるために晒したのではありません。そこからでも立ち直れることを示すためです。そして立ち直った人は新しくあれます。
ペトロもそうです。先週の夜に行った聖書研究祈禱会では、ルカによる福音書の今日の箇所を先立って読みました。参加者は皆、ペトロが三度否認するこの場面をよく知っていました。よく知っているということは、それだけ記憶にとどまる物語だということです。
54節に「遠く離れて従った」と書かれてあるように、遠く離れてでも従ったペトロは、他の弟子たちよりもたいしたものという話も出ました。遠く離れていることで、その場の展開によって、すなわちイエス様がメシアとしての力を発揮され、人々がひれ伏すような展開になれば、ペトロは「わたしは従って来ましたよ」とイエス様の前に進み出るに違いないなど、感想を述べあいました。
そうであったとすれば、ペトロの思惑は外れたのです。それは小さなことから起こりました。大祭司の家の女中が、たき火に照らされたペトロの顏を見て、「この人も一緒にいました」と言ったのです。当時、女性の証言は、証言として認められない時代でした。ペトロは、まだごまかせると思ったのでしょう。即座に打ち消し「わたしはあの人を知らない」と言いました。
ところが、少したつと別の人ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。ペトロは、「いや、そうではない」と否定しますが、まずいと思ったでしょう。嘘が二度重なりました。おそらくペトロの体は震え、汗が流れ、簡単には立てなくなっていたのではないでしょうか。それから1時間ほどが経つとまた別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ったのです。ペトロの顏付き、また言葉から、エルサレム周辺の者ではなく、異邦人の地とも呼ばれたガリラヤの者だと見抜かれたのです。
ペトロは更に嘘を重ねるしかなく、「あなたの言うことは分からない」と言いました。しかし、この言葉も言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いたと聖書は告げています。この三度目の否認の言葉は、鶏の声にかき消されたかもしれません。このときペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出したのです。
「主の言葉を思い出して」とありますが、どうでしょう。普通「思い出す」と言う時には、かなり以前のことを指して言うのではないでしょうか。1週間前に起きたこと、時には何十年前のことを思い出したと。しかし、イエス様がこの言葉を言われたのは、最後の晩餐の席上です。まだ半日も経っていません。このときペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と威勢のいいことを言ったのです。その言葉を受けて、イエス様が言われた言葉が22章34節です。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」そのイエス様の言葉を、ペトロは思い出したというのです。
思い出したというのですから、聞いてはいたのです。聞きはしたけれども、自分がそんなこと言うはずがないと思ったので、引き出しの奥の方にしまったのです。それで遠い過去に聞いた言葉のようになっていた。
きっかけは鶏の鳴く声でした。しかし、鶏の声は思い出すきっかけにすぎません。ペトロの否認の出来事は、四つの福音書すべてに書かれてあります。それだけうわさが広まったということではなく、ペトロ本人がこの出来事を何度も語ったのです。本当なら隠しておけばよいことを。この出来事の中に、ルカによる福音書にだけ記された言葉があります。ルカにしかないことを以外に思われるでしょうが、ルカは「主は振り向いてペトロを見つめられた」という言葉を加え、情景をドラマチックなものにしています。
イエスのまなざしと聞いて多くの人が連想するのが、先に歌った197番です。
「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる
よわきペトロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。」
今日の聖書と共に、わたしたちの心に刻まれる讃美歌となっています。この讃美歌を愛唱歌にされているという方は少なくありません。愛される理由は、ペトロを見つめる主のまなざしが、罪を責める厳しいまなざしではなく、罪を赦すまなざしとして歌われているからでしょう。
「そして、外に出て激しく泣いた」とあります。ペトロは、自分の犯した罪の重さに耐えきれず、崩れ落ちるように泣きました。このときペトロの自我は崩壊しました。でももし、イエス様のまなざしが責めるような冷たいものであったとすれば、このように泣くことはなかったのではないでしょうか。
ここでも思い起こす讃美歌があります。294番「ひとよ、汝が罪の、大いなるなるをなげき、悔いてなみだせよ」です。神が「悔いてなみだせよ」と言われたのです。ペトロの涙は、罪を悔いる涙でしたが、泣くだけ泣かすだけの涙ではなく、泣いた後で立ち直らせる涙でした。ペトロが自力で立ち上がるのではなくて、イエス様が立ち上がらせてくださるのです。復活の主が立ち上がらせ、聖霊降臨後に、使徒として立ち上がることができたのです。
このときペトロが思い出した主の言葉は、鶏が鳴く前に三度否むという予告だけではなかったと思います。22章32節の「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉です。そのとおり、ペトロは立ち直りました。
最後に一つの詩を紹介して説教を終わりたいと思います。5年前に召されましたが、台湾基督長老教会で総幹事をされた高俊明牧師の詩です。長きにわたって台湾の民主化運動に身を投じ、投獄もされました。高俊明牧師の『サボテンと毛虫』という詩集は日本語にも訳されていますが、その中に「現在」という題の詩があります。台湾における福音伝道と人権のための闘いに身を投げうった牧師の信仰が表されています。
「現在」
「イエスさま! 私の過去は 失敗の連続でした
私の過去は 罪悪にみちたものでした
私の過去は 本当に汚れた 醜いものでした ああ 私の過去は――」
「もう言うのをよせ!」と イエスさまは私を制した
「過去はもう問わぬことにしよう! 現在だ! 現在!
君の考うべきことは現在なのだ!
君は過去にとらわれている 過去をぬけ切らない 現実にとび込み切らない!
現実逃避している 此処に来い! 君の現在考えるべきことは これだ!
君の現在なすべきことは これだ! 君の現在語るべきことは これだ!
現在! 現在! 現在に生きよ! 君の過去の負債(おいめ)は私がひき受けた」
ペトロを立ち上がらせたイエス様の声が重なってくるようです。かつて台湾を植民地として支配した日本のキリスト者にとっても、深い励ましの詩となっています。
わたしたちの周りにも、過去に犯した罪が重く圧し掛かり、立ち上がれなくなっている人は少なくありません。しかし、わたしたちが信じる神は、どんな罪をも赦し、立ち直らせてくださるお方です。ダビデしかり、ペトロしかり、アウグスティヌスしかり。わたしたちもしかりです。罪が赦されていることの感謝の中で歩むことを、主が望んでおられます。