イースターまでの日曜日を除く40日間をレント(受難節、四旬節)と呼びます。イエス様が十字架で死なれるまでの苦難の道を思い起こす期間です。今年のレントは、ロシア軍のウクライナ侵攻に胸が締め付けられる思いをもちつつ過ごしています。さふらんの一つのホームで発生したコロナ感染にも心を痛めました。また、これを書いている2022年3月11日は、東日本大震災が起こって11年目の日です。今も震災は終わっていません。福島第一原子力発電所の廃炉作業は順調に行っても、20年から30年かかると言われています。多くの人が死と隣り合わせの作業に従事せねばならないのです。
「ローズンゲン」(日々の聖句)があります。3月11日の聖句はコヘレトの言葉8章8節の「人には死の日を支配する力はない」(ベテスダ私訳)です。以下、新共同訳で8節全節を記します。
「人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない。」
現実主義者であるコヘレトは、時代の霊に翻弄される現実を見切りました。そこには人間の無力があり、時々の権力者に翻弄された人類の歴史を思い起こさせます。今もその渦中にあることを深く思わされています。
わたしたちの中で、自分がいつ死を迎えるかを知る人は一人もいません。いつ死ぬかわからないということは、自分は人生の主とはなり得ないということです。ローズンゲンの新約の言葉、「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(マタイ6:27)とあるとおりです。
わたしが聖書を読むようになって知らされたことは、自分の人生は造り主である神様から貸し与えられたものであるということでした。自分がまことの主がどう生きて欲しいと願っているのか、与えられた人生をどのように用いてゆくのかを聞き取ることで、何が最善の人生なのか、答えが見えてきます。
世界の行く末も、不安を数えればキリがありません。コロナの終息は目途が立たず、ウクライナ危機を評論家的な見方で済ますことはできません。わたしたちの問題として祈りましょう。祈りの中で、神の思いが聞こえてくるはずです。
ある人が、「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」と言いました。この言葉には虚しさはありません。世界が終わっても、新しい世界が始まる、死の先に命があるという希望から生まれた言葉です。十字架の苦難と死を超えて復活された主に望みおいて、レントの季節を共に過ごしましょう。