イザヤ書53章11~12節 ルカによる福音書18章31~34節
「三度目の予告」田口博之牧師
今日は10月第一聖日、教会総会で決定した年度計画では、今日は世界聖餐日として在日大韓基督教会との交流礼拝を行う予定でした。世界聖餐日とは、1930年代にアメリカで始まったと言われていますが、エキュメニカル運動として世界に広がっています。在日大韓名古屋教会との交流礼拝は、在日大韓基督教会と日本基督教団が、1984年に宣教協約を結んだことの実質化として始まったものです。交流礼拝の形を持ってから31回目を数えましたが、コロナ感染を鑑み中断しています。今日も聖餐式を行いますので、出来ないことはなかったかもしれませんが、愛餐会も持てませんし、十分な交流は持てないと判断し見送ることといたしました。
しかし、今日が世界聖餐日であることには変わりありません。今朝の礼拝には主の食卓が備えられています。今朝は、ルカによる福音書18章31節以下、イエス様が三度目に死と復活を予告されたところです。説教では、聖餐を行わないときにも心がけていることですが、聖餐において現臨されるイエス・キリストを指し示せる取次ができればと願っています。
イエス様が三度予告されたということは、すでに一度目と二度目があるということになります。そこを確認しておくと、最初が9章21節以下、122頁にあり、二度目が123頁の終わり9章43節b以下です。すぐに気づくことは、二度目の予告と三度目の予告まで9章から18章へと間があるということです。
理由は、これも何度か話をしたことですけれども、ルカによる福音書では9章51節に、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあるように、9章からエルサレムへの受難の旅が始まっているのです。ルカによる福音書は、イエス様の様々な教えや業も、エルサレムへの旅の途上に多くが語られている、そのように構成されています。この間に、罪人や徴税人を招く話や、律法学者やファリサイ派の人々との問答なども出てきます。イエス様は弟子たちだけを連れて、エルサレムに向かわれたのでなかったのです。
そして、今日のテキスト18章31節で、イエス様はあらためて、十二人を呼び寄せて言われるのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と。まもなくエリコ、エルサレムは間近です。イエス様は弟子たちを今一度呼び寄せて、エルサレムで何が起こるのか、何を目的にわたしたちはエルサレムへの旅を続けてきたのかを確かめるように語るのです。
「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」とても短い言葉で、受難と復活を予告しています。
人の子とは、イエス様のことです。「預言者が書いたことはみな実現する」とは、これから自分の身に起こることを旧約の預言が実現することだと、とらえているということです。具体的にどの預言書とは書かれていませんが、今朝はイザヤ書53章「苦難の僕」の最後の部分、11節、12節を朗読しました。
「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
キリスト教会は、イザヤが語るこの僕こそが、イエス・キリストの預言であると理解してきました。たとえば使徒言行録に、フィリポがエジプトの高官を洗礼にまで導く場面があります。あのときフィリポは、エジプトの宦官が馬車の中で、イザヤ書53章7節、8節の苦難の僕の箇所を朗読しているところを聞きました。フィリポが「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、宦官は「手引きしてくれる人がなければどうしてわかりましょう」。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか」と尋ねると、フィリポはこの箇所から説き起こして、イエス様の福音を告げ知らせるのです。ですから、イザヤの預言した苦難の僕がイエス・キリストだと、キリスト教会が勝手に解釈しているのではなく、聖書がそのように指し示しているのです。
但し、イザヤ書53章というのは一例にすぎません。ルカがここで「預言者が書いたことはみな実現する」と記したのは、旧約全体の預言がそうだと言うのです。イエス様の苦難と死、さらには復活を指し示しているのだと語っている。
もう一つ、ルカが記した三度目の予告の特徴を言えば、異邦人に言及していることです。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」とあります。ここでは長老、祭司長、律法学者といったユダヤ教の宗教的権威者のことは語らずに、イエス様を直接に痛めつけたローマの兵士、何よりこれらのことを最終決定したローマ総督ポンテオ・ピラトのことを語っています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ」と使徒信条で告白されているとおりです。
けれども、それだけではありません。三度の受難予告はトータルで考える方がいいのです。最初の予告では「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され」とあり、二度目の予告では「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と書かれてありました。そして18章が三度目の予告となり、そのような説教題もつけましたが、ほんとうは「最後の予告」とした方がよかったかもしれない。
17章25節には「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」とありました。ここを三度目の予告としてもよかった。ここには、「今の時代の者たち」とあります。そして、18章では「異邦人」です。ルカはこれらの予告を通して、イエス様の受難の出来事は、すべての人々が関係している。わたしたちも、「今の時代の者たち」であり「異邦人」です。また、そのようにとらえなければ、イエス様の死と復活の出来事が人ごととなってしまいます。
この礼拝に集められたわたしたちも、ここで呼び寄せられた12人、弟子の一人ひとりだということです。では、わたしたちは、受難予告で語られていることが理解できているでしょうか。34節に「十二人はこれらのことが何も分からなかった」と書かれてあります。そう、弟子たちはここまでイエス様と一緒に歩いてきたのに分からなかったのです。イエス様はここまで「神の国」について語ってきましたが、弟子たちは、エルサレムにつけばイエス様が神の国の王座に着く。そんな思い違いをしていたのです。事実マタイの記述では、三度目の予告をした直後に、ヤコブとヨハネの母親が出てきて、「王座にお着きになるとき、二人の息子の一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に」と、そんな見当違いなことをイエス様に頼んでいるのです。この家族だけの問題ではなく、他の十人は二人のことで腹を立てた、そんな始末です。
弟子たちは、最後まで理解することができず、イエス様が死刑の判決を受ける前に逃げ去ってしまいました。では、彼らはもう絶望するしかないのでしょうか。そうではありません。ルカは、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」と語った後で、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」と続けています。彼らは理解できなかったのですが、それはイエス様の言葉の意味が隠されていたからだと言うのです。隠されていたということは、露わになる時が来るのです。でも、それは人間の努力で成し得ることかといえば、そうではありません。前段落の金持ちの議員とのやり取りの中で、人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったとき、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われました。人間の力では理解ができないことでも、神が理解できるようにしてくださる。弟子たちの無理解がくつがえされる時が来るのだと言うのです。
この隠されているものの覆いが取り除かれることを啓示と言います。宗教学では大きく啓示宗教と自然宗教の二つに分類されます。自然宗教は理性宗教とも言われますが、人間の自然な本性や理性に基づいて神を認識しうるというものです。他方キリスト教は啓示宗教です。人間の目には隠されているけれども、神ご自身が覆いを取り去ることによって示されるものです。モーセがシナイ山に入ったとき、神は燃え尽きない柴の間から、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として啓示されました。また神は、預言者を通してご自身を啓示し、さらにイエスの受肉、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことで、目に見えない神を世に示されたのです。
そえでも、そばにいた弟子たちは理解できませんでした。神の国がわたしたちの間にあるのに理解できなかったのです。けれども、イエス様は弟子たちの無理解の責任を彼らに負わせようとはされないのです。弟子たちの無理解が覆る時、覆いが取り去られる時がやってくる。それが復活の時です。
今日もイエス様の受難予告という言い方をしてしまいますが、イエス様は受難ばかりでなく、「三日目に復活する」と予告されました。受難が理解できなかった弟子たちは、復活も理解できませんでした。「復活する」という言葉すら耳に入ってこなかったと思います。それは実に、イエス様が復活されたことを知っているわたしたちもそうなのです。
著名な政治学者、思想家のキリスト者でもある姜尚中氏が、こういうことを書いています。
「牧師の言葉がストンと胸に落ちたわたしは30代で洗礼を受けましたが、聖書にある『復活』がどうしても理解できませんでした。正直、いまもそうです。どんなに齢を重ねても、研究を続けても、自分がどうして生まれて、どうして生きているのかさえ説明できません」と。
あの姜尚中氏でさえそうなのです。しかし、キリスト教は啓示宗教なのですから、年齢を重ねれば分かるとか、研究を続ければ分かるとか、そういう考えである限り理解できないことも事実です。であるならば、わたしたちは失望するしかないのでしょうか。
わたしが、希望が与えられる聖書箇所は、エマオに向かう二人の弟子たちに復活されたイエス・キリストが共に歩いてくださるところです。二人の目は遮られていたので、イエス様が共に歩いてくださることが気づきませんでした。でもイエス様は、粘り強く「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」のです。
そして、イエス様を家に招いて一緒に食事の席に着いた時のことです。いつの間にかイエス様が食卓の主となり、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とき、二人の目が開け、イエスだと分かったとルカは告げているのです。その瞬間にイエス様の姿は見えなくなりましたが、二人は捜すこともしませんでした。イエス様が聖書に語られていたとおり、三日目後に復活されたことを確信できたからです。そればかりでなく、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と言うのです。今この時でない。聖書の説き明かしを聞いたときのことを振り返って、わたしたちの心は燃えていたことを確かめることができた。
世界聖餐日の今日、交流礼拝こそ持てませんでしたが、今から聖餐の祝いを囲みます。皆さんの席からも、パンと杯の器が白いベールに覆われているのが見えるでしょう。これは何も埃がかぶらないためにしているのではありません。聖餐はサクラメントです。神の秘儀であることの象徴です。今はベールに包まれた状態ですが、これが取り除かれてパンと杯が配られるときに、これがわたしたちのためのキリストの体であり、契約の血であることが、信仰によって啓示されるのです。
復活の主が食卓を備えてくださったように、聖餐は十字架で死なれたキリストばかりでなく、復活されたキリストを思い起こす時です。エマオで二人の弟子にパンを裂いてくださったときのように。洗礼でキリストの死と復活の命に与ったわたしたちは、聖餐においてこれを想起するのです。
そのためにも聖霊の助けが必要です。ヨハネ福音書に記された告別説教で、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と語られたように。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と語られたとおりです。
天より送られた聖霊によって、隠された神の御心が啓示されて、わたしたちは心を燃えたすことができるのです。