聖書  創世記1章1~3節   ローマの信徒への手紙8章18~30節
説教  「御霊のうめき」田口博之牧師

週報の表紙に年度標語と年度聖句を記してあります。今年度は「祈りの共同体」という標語と「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」という標語聖句が総会で承認されました。新型コロナウイルス感染症により世界がすべての人が苦しんでいる。教会も私たち一人一人も困難な状況を抱えているなか、苦難を耐え忍び希望をもって祈りに生きていこう。そんな思いが込められています。

今、5回目の緊急事態宣言が出されていますが、特に若い人への感染が見られるということで、これまでの中でもっとも厳しい状況にあります。小中学校も、また名古屋教会幼稚園も、例年通りに二学期を始めることができませんでした。かつての教会暦では9月第一聖日を振起日と呼んでいました。振起という漢字は、振動の振という字に起きると書きます。暑い夏を終えて心を奮い立たせ、収穫の秋に向かって新たな思いで出発するという意味合いです。

「祈りの共同体」という標語が出来ていますが、このままでは棚の上に飾ったままになりかねない。振起日という呼び方はしていませんが、苦難の中でも望みを持って祈ることができる共同体であることを思い起こす礼拝になればと思いました。また、そうでなければ、礼拝で心が振い起こされることがないならば、緊急事態宣言中というリスクを伴う中、どうして集まる必要があるのか。そういう問いに答えることができなくなってしまいます。

そのような思いの中で、ローマの信徒への手紙8章18節から30節の御言葉が祈りの中で与えられました。18節に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。この御言葉は、今日のテキストの通奏低音となっているという言い方ができると思います。この言葉が底流にあって、この後に続く御言葉が旋律を奏でていく。

この手紙の著者であるパウロは苦しみに生きた人でした。パウロはキリストの伝道者となったことで迫害を受け、何度かの死ぬほどの苦難を経験しました。投獄されて、いつ処刑されるかもしれない状況に追い込まれたこともありました。そして、どれだけ祈っても決していやされることのない病気、一つのとげが与えられていました。

パウロは誰よりも苦しみを知る人でしたが、ではなぜ「現在の苦しみは・・・取るに足らないと思います」と言ったのでしょうか。ただ「取るに足らない」と言ったのではありません。「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、・・・取るに足らない」と言っています。これは面白い言い方だと思います。普通わたしたちは、こういう言い方はしない。「わたしたちの苦しみは、あの人たちが背負っている苦しみに比べると取るに足らない。」そういう言い方なら、することはあるかもしれません。

わたしたちはコロナの問題で苦しんでいますが、少なくとも今この礼拝に集められたわたしたちは感染しているわけではありません。現に感染して自宅で療養されている人や、中等症以上の症状が出て入院されている人と比べれば、その苦しみは取るに足らないのです。8月の豪雨など、自然災害で被災された人たちと比べれば、わたしたちの苦しみは取るに足りません。

でも、パウロはそういう言い方はしていないのです。そうではなく、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言っています。これは比較ではありません。苦難と栄光ですから、そもそも比べることなどできない、別次元の話です。しかも片方は将来の話です。「将来、現されるはず」という言い方をしています。でも、パウロは確信しているのです。将来、必ず栄光を受けるということを。その栄光とは、主が再び来られるときに明らかになる栄光です。パウロはその素晴らしさの光を当てるときに、現在の苦しみの意味が変わってくるのです。取るに足らないと思えてくるのです。

信徒時代に聞いた説教の中で、牧師がよく「終わりから今を見る」という言い方をされていたことが心に残りました。「終末論的に生きる」という言い方をされたときもありました。はじめよく分かりませんでしたが、いつしかその言葉を心に刻むようになり、わたしの事柄のとらえ方の基礎となっていきました。それは日の御言葉にも通じますが、今がどんなに苦しくても、もう死んでしまいたい、としか思えなかったとしても、一点集中しない。できるだけ広い視野で判断することを心がけますが、何よりも終わりの日、「将来現されるはずの栄光」を受けた自分の姿を見て、そこから今を見つめる。すると、どんな闇であっても必ず光が見えてきます。

菅(すが)首相が次の総裁選に出ないと発言したことで政局が賑やかになっていますが、10日程前、愛知県に緊急事態宣言が出される頃に「明かりははっきりと見え始めている」と発言したことが大きな批判を受けました。感染爆発しているこの暗い状況のいったいどこに明かりが見えているのか、誰もが呆れたと思います。わたしもそう思いましたが、首相なりに明りが見えていたのではと思いました。それは指導的立場にある者なら必要だと言っていい物の見方です。

しかし、菅首相が言った「明かり」は、終末論的なものではなく、ワクチンの効果を確信し、供給も足りていく。あるいは抗体カクテル療法の目途がついたということではなかったかと想像します。それは、暗闇の中をもがいている人には、虚しさしか残らない言葉だとは思います。道筋が見えてきたと言えば問題にならなかった気がしますが、何とか希望の光を届けたいと思ったからではないでしょうか。

さて、今日のテキストは内容がとても濃く、きっちり説教しようとすれば最低2回、できれば3回に分けて話すべきところです。戸田伊助先生などは、この箇所から「うめき」という1冊の本ができるほど語られたほどです。今日は総括的な話すらできるかわかりませんが、このテキストを読んだからには、抑えておかねばならないことをお伝えします。それは、ここには三つのうめきが出てくるということです。うめきとは苦しいときに出てきます。

数か月前の新聞に、「うめき声に囲まれ、友人は逃げて…コロナ病棟消毒・清掃 過酷な現場にも「やるしかない」作業員の決意」という見出しの記事が出ていました。「中等症以上の患者の病室でから、患者たちの「助けてくれ」「死にたい」といううめき声が聞こえるという。こういう仕事をするわたしの前から友人たちは避けるようになったという女性の手記です。ところが、今日の聖書が語るうめきには、希望があるのです。

一つ目は19節から22節。ここには被造物のうめきが語られています。22節に「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。被造物とはすべて造られたものです。人も生き物も自然界にある神に造られたものすべてのうめきをパウロは聞き取っています。

讃美歌425番「こすずめも、くじらも」の讃美歌の2節に「大地震も、嵐も、稲光も、造られた方に 助け求める」という歌詞があります。この作詞者は、ときに自然災害と呼ばれるものも、自然界の被造物のうめきとして見たのでしょう。日本の8月豪雨も酷かったですが、異常気象は世界的規模で起こっています。アメリカでも東海岸での大雨、西海岸での熱波、中国やドイツで起こった洪水なども、被造物のうめきだという見方です。それらは、地球温暖化の影響と言われます。その要因を作った人間の責任も問われSDGsなども提唱されていますが、その責任に答えることができるのは、被造物を治める務めが与えられたことを聖書によって知るわたしたちだとは言えないでしょうか。

リニアの開発に関わる人をトータルすれば、何十万から何百万人数えられるかもしれませんが、それがほんとうに必要だと思っている人がどれほどいるでしょうか。ウィズコロナの時代に、貴重な自然がえぐられていく、被造物のうめきが増していくばかりなのに、傍観しているだけでいいのでしょうか。

19節に「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とあります。幼稚園の裁判は、たいへんなことであり、「産みの苦しみ」でした。ある人は教会らしい行動だったと評価しますが、ある人から見れば、教会的ではないと映っただろうと思います。でも、最終的に名古屋教会は、神から見てどうなのかという道を進んだのではないか。わたし自身はそう評価しています。うめきが「産みの苦しみ」ということは、苦しみの先にある喜びの声が響くということです。

第二に、23節から25節で「わたしたち」のうめきが語られます。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。うめくのは、先ほどの被造物だけではない、「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも」というのですから、これは信仰者のことを指しています。

このうめきについては、あまり言葉を加える必要がないように思います。なぜなら、わたしたちの話だからです。信仰が与えられ、洗礼を受けたからといっても、わたしたちは物事が何もかも上手く行くわけではないことを知っています。パウロがそうだったように、信仰者であるがゆえの苦労も経験します。うめき続けています。それなのに、救われているという言い方ができるのでしょうか。

「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」とあります。このうめきには、希望があるのです。終末的な希望です。わたしたちは、神を父と呼んでいます。今すでに「神の子」とされていますが、罪という弱さがあるために完全ではないのです。そんなわたしたちは、体が贖われことを待ち望んでいます。復活の体が与えられる終わりの日、将来の栄光を受けるときを望むとき、厳しいこの世の歩みの中にも希望が見えてきます。

そして第3のうめきは26節以下です。ここには“霊”のうめきが語られます。「同様に」という言葉で始まるように、先の二つのうめきと同様に“霊”もうめくことが語られています。このクォーテーションマークが付された“霊”は聖霊を意味します。聖霊は父なる神と子なる神と共に、聖霊も三位一体の神の一位格です。説教題は「父、子、御霊の」とも言われるので「御霊のうめき」と付けました。それにしても、御霊なる神がうめくというのは、不思議な気がします。

しかし、そこにこそ大きな慰めがあるとはいえないでしょうか。聖霊は弁護者とも呼ばれますが、わたしたちの内にいて、うめきを共にするほどに一つになってくださるのです。ただうめいているだけではありません。“霊”は弱いわたしたちを助けてくださるのです。助け主とも呼ばれるゆえんです。そして、どう祈るべきか知らないわたしたちを“霊”自らが執り成してくださると言うのです。

キリスト教の祈りの特質として「執り成しの祈り」があります。執り成しの祈りとは、誰かのために、また、誰かに代わって祈るということです。名古屋教会の礼拝では、「司式者の祈り」、「会衆の祈り」の時があります。その時にも、色んなことが頭をめぐって、何を祈ったらいいのか分からないということがあるかもしれません。でも、たとえばそのときに礼拝を共にできない子どもや孫の顔が思いうかんで、言葉にできなくても、平安を祈ったとすれば、そこに御霊なる神の導きと助けと執り成しがあります。

あるいは、痛みや苦しみのあまりに、ただうめくことしかできない時があります。言葉を持たない動物が、「ウー」と、うなり声をあげるように。でも、そこで御霊が共にうめいてくださっていると捉えるならば、そのうめきは絶望ではありません。パウロは、そのうめきが“霊”の執り成しだというのです。うめきを祈りとして、天にいます父なる神に届けてくださる。天においては、父の右にいます御子イエス・キリストが、あのうめきを聞いてくださいと執り成してくださる。わたしたちの祈りには、地には聖霊の、天には御子の二重の執り成しがある。だから祈りが聴かれないわけがないのです。

最後に、創世記の初めの御言葉に聞きたいと思います。創世記の天地創造物語は、古くはモーセの書とも言われましたが、今はモーセの時代から7,8百年を経たバビロン捕囚期に書かれたと考えられています。王国が滅び民は捕囚され、イスラエルの歴史の中でもっとも苦難の時代にあって、イスラエルの民は自分たちの存在の意味を問うたのです。創世記1章1節から3節に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」。

イスラエルにとって、先の見えない闇の時代にうめきの中に光を見たのです。創世記のこの箇所について、「無からの創造」とも言われますが、しかし、そこに神はおられたのです。神の霊がうめくように動いていたのです。その意味ではまったくの「無」ではなかった。むしろ神は「有る」ところから、出発したのです。わたしたちの出発点もここにあります。神はいるのかという叫び、うめきの中で神は働かれる。神はおられ、神の霊が働かれている。そこに始まりがあり、また終わりがある。終わりにも光があるのです。そこにわたしたちの究極の希望があるのです。