申命記10章12~22節 マタイによる福音書22章34~40節
「神を敬い、人を愛し」 田口博之牧師

キリスト教は「愛の宗教」だと一口に言われます。それは確かなことですが、ここでいう愛とは、人間的な次元の愛ではありません。人間的な次元の愛だけでは、キリスト教が倫理、道徳の教えに留まってしまいます。愛と救いと結び付くことがなければ、愛の宗教と呼ぶことはできません。ではなぜ、キリスト教の愛が救いと関係するものとなるでしょうか。

愛と救いを結び付けるものが、イエス様の十字架です。罪によって自分では人を愛せなくなっている人間を、イエス様がご自身の十字架のゆえに解き放ち、互いに愛し合えるような状態に回復してくださったからです。そこに神の愛、十字架の愛があります。十字架の愛は犠牲を伴う愛です。

新約聖書が書かれたギリシャ語では、この愛にアガペーという言葉を当てました。愛を表す言葉として、フィリアやエロースという言葉が使われていましたが、神と人間との交わり、さらには人間同士の本質的な交わりを回復させるものとして、古典ギリシャ語ではあまり用いられなかったアガペーを使ったのです。しかしながら、旧約聖書にもアガペーの愛の理解はすでに存在していました。

十字架に向かう最後の1週間を生きておられたイエス様は、反対者たちから、様々な問答を持ちかけられていました。ファリサイ派の律法の専門家が、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」とイエス様に問います。問い自体は重要なものですが、彼らは「イエスを試そうとして尋ねた」のです。彼らなりにどの掟が最も重要かという模範解答を持っていて、イエスの言葉尻をとらえ、陥れる目的で、何と答えるかを試されたのです。

イエス様は彼らの企みを承知しながら、真っすぐに答えられました。それほど大切なことだったからです。二つことを言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

この答えに対する律法学者の反応は出てきませんが、これが非の打ちどころのない答えであったことは間違いありません。第一の掟は、申命記6章5節。第二の掟は、レビ記19章18節の引用です。この二つが、律法の中で最も重要な教えだと言われたことは、神を愛し、隣人を愛するということが、わたしたちの救いと切り離すことができないことだからです。

イエス様に質問をした律法の専門家は、律法をきちっと守る人が救われるのだと教えてきました。自分たちは、それが出来ていると思っていました。ところが、出来ていると思っていた彼らは、律法を守ることができない人たちを裁いていたのです。そこだけをとっても、彼らは隣人を愛することが出来ていませんし、それは、すべての人の尊厳を重んじる神の思いにも反することでした。

16世紀のドイツで生まれ、今も信仰教育の書として世界中で用いられている「ハイデルベルク信仰問答」があります。その問3で、「何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか」と問い、「神の律法によってです」が答となっています。パウロがローマの信徒への手紙3章20節で「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」と書かれてあるとおりです。律法では救われないどころか、守れない自分を前に惨めになるしかないのです。

ハイデルベルク信仰問答は、続く問4で「神の律法は、わたしたちに何を求めていますか」と問い、これに対して、イエス様が最も重要な掟とした二つをあげ、さらに問5では、「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と問います。その答が「できません。なぜならば、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いているからです」となっています。どうでしょう、とても、激しい答えです。わたしは、ここを初めて読んだとき衝撃を受けました。これでは、救いようがないではないかと途方に暮れたのです。

これらの問答を中心とするハイデルベルク信仰問答の第一部は「人間の悲惨さについて」となっています。神を愛していないのは、神を憎んでいるということ。隣人を愛せないのは、隣人を憎んでいるという。とても鋭い言葉で、今も自分の心がえぐられそうになります。それが、人間のどうしようもない惨めさだというのです。

しかし、ハイデルベルク信仰問答はこれでは終わらず、第二部で「人間の救いについて」、第三部で「感謝について」展開していきます。悲惨な人間が救われ、感謝の生活に至るための筋道を丁寧に語っていくのです。律法の土台となる「十戒」も、わたしたちの祈りの基本である「主の祈り」も、この第三部の「感謝について」で解説されていきます。守ることができなくて。惨めな思いにさせられる律法が与えられていることが感謝となる。祈りができることが感謝となる。そこに人間の救いがあります。

今日は詳しく述べる時間はないので、簡単な方法を取りますが、讃美歌21が手元にある方は見ていただけるとよいと思います。讃美歌21の93-2に「十戒」が記されています。「わたしは主、あなたの神、・・・」で始まる前文があり、続いて(1)~(10)と番号がふられています。これがプロテスタント教会における十戒の数え方です。先ほど紹介したハイデルベルク信仰問答では、「この十の戒めはどのように分かれていますか」という問いに対して、「二枚の板に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人に対して、どのような義務を負っているかを教えています」と答えています。

すなわち、前半の四つの戒めで、神と人間との関係について、後半の六つの戒め、第五戒の「あなたの父母を敬え」以降は、人と隣人との関係について規定していることが分かります。すると、先ほどのイエス様の答えは、この十戒の二枚の板のコンセンサスを別の掟で答えたといえるわけです。

つまり、イエス様が語られたことは、律法学者が考えているものと答えは同じであっても、全く意味が変わってしまったのです。神と人とを憎むような惨めな生活にとどまることなく、神を愛し敬い、隣人を愛して生きることができるほどの感謝の実を結ぶものとなるからこそ、この掟を重要な掟とされた。しかし、そのためには、救いに至る筋道が必要となります。イエス様がこのやりとりの後で、十字架に死ぬことがなければ、そうはならなかったのです。イエス様の十字架の愛をわたしのためと信じ、受け入れたときにこそ、罪から解き放たれて、愛に生きる者とされていく。

このイエス様の教えは、多くのキリスト教主義学校のスクールモットーとされています。名古屋学院の中学、高校、大学では、この御言葉から、「建学の精神」である「敬神愛人」が生まれています。名古屋学院大学のホームページには、「名古屋学院大学の「建学の精神」である「敬神愛人」は、前述の新約聖書から引用されました。人間は神を愛し敬うこと、そして自分を愛するように隣人を愛すること、この「敬神」と「愛人」を一番大切な掟として守らなければならないという、イエス・キリストの教えです。これは、ただ人と仲良くしなさいというヒューマニズムからだけでなく、神を敬うことによって成立する隣人愛です」と掲載されています。

ここで、「神を敬うことによって成立する隣人愛です」と言及されていることは重要です。学校も病院もまた多くの社会事業は教会から生まれました。わたしはキリストの名によって建てられたそれら多くのところと関りを持っていますが、教会から遣わされているという思いを忘れたことはありません。それらはすべて、教会よりもはるかに大きな規模になっています、キリストが抜け落ちてしまわないように、設立の精神を忘れないだけでなく、そこに立ち戻るために、なくてはならぬ塩のような存在でいたいと思って関わっています。

これからの時代、教会の社会との関わりが重要になってきます。一昨日の夜、Eテレ「こころ時代ライブラリー」で、長崎の大村入国管理センターに収容されている方々への支援活動をされている柚之原寛史(ゆのはらひろし)牧師の活動の特集がありました。2018年9月の放送に、現在の柚之原牧師の活動や考えを追加取材して編成されたとのことでした。わたしはこの牧師のことは知らなかったのですが、見て驚きました。まさに地の塩、世の光として働いておられます。柚之原牧師は大村で開拓伝道を始めてまもなく、教会に助けを求めたイラン人との出会いがあり、これがきっかけとなって、難民認定申請中、不法滞在により収容されている方たちへの支援活動を始めました。入管施設で礼拝をしていることを知り驚きました。

名古屋入管でのウィシュマ・サンダマリさんのむごたらしい事件があり、入管施設の問題にスポットが当たったことから追加取材があったと思われますが、一昨日は入管法改正案が衆議院法務委員会を通過したこともあり、このタイミングに合わせの放送だったかもしれないと思いました。改正案といっても、不法残留外国人の迅速な送還や、入管施設での長期収容の解消を目的としたものですので、弱い立場から見れば改悪としかいえないものです。紛争から逃れた人、具体的にはウクライナからの避難民を、難民条約上の難民にあたらないとみなす制度も改正案には入っています。それは一見よいことのように思えますが、裏を返せば難民としては保護しないということになるわけです。

今日もう一か所読まれた申命記10章19節に「あなたたちは寄留者を愛しなさい」とあります。寄留者とは、すなわち在留外国人です。まさに今、この国が聞くべき御言葉です。「寄留者を愛しなさい」というのですから、「隣人を愛しない」という律法を越えています。この御言葉の根拠が「あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」からです。ヨセフからモーセまでの430年間、イスラエルの民はエジプトへの寄留民となりました。これは出エジプト記の1章を読むと分かることですが、ヨセフのことを覚えているうちはよかったけれども、イスラエルの民の数が増え続けたことにより、エジプトから見て恐怖の民となってきました。エジプトは、イスラエルに過酷なまでの強制労働を課し、ついには生まれてきた子が男なら殺害せよとの命令を出しました。そこまでの虐待を受ける中で、出エジプトの出来事が起こります。神がイスラエルを愛されたがゆえに、彼らの叫びを聞いて、エジプトの奴隷状態から解放したのです。

17節から20節。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい」とあります。

寄留者を愛せる根拠は、寄留者であるわたしが愛されているからです。柚之原牧師の言葉の中に、難民の難は難しいという字、乗り越えられない苦難、困難、艱難を経験するわたしたちは難を背負って生きている。地球の裏側にいる人たちだけでなくて、認知症の高齢者、行き場を失った人、被災者、わたしたち自身も難民。そんなわたしたちをイエスは愛してくださっている。わたしも助けられた、だから助けるのだと言われました。

良きサマリア人の話をしたイエス様は、「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われました。助けた人だけを見たのであれば、自分にはできないとなってしまうけれども、助けられた自分から見たときに、助けたサマリア人とイエス様の姿が重なってきます。イエスに倣いたい、イエスと同じようにしたいと思った時に、「行ってあなたも同じようにしなさい」という呼びかけが、律法的ではなく、新しい生き方への招きとして聞こえてきます。

申命記10章12節以下には「神が求められること」という小見出しが付けられています。
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」この問いかけに対して、第一に「ただ、あなたの神、主を畏れ、そのすべての道に従って歩み」とあり、第二に「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」、第三に「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って」とあります。総じて「神を愛し、敬え」と語られます。しかし、そればかりではない。「あなたが幸いを得ることではないか」とあるように、神はわたしたちが幸いを得ることを求めておられます。そのように、神はわたしたちを愛しておられる。

この神の愛が基盤となって、神を愛し敬い、隣人を愛せるようになる。イエス様は、最も重要な掟と尋ねられて、二つの掟を述べられましたが、この二つは切っても切り離せない一体のものです。神だけを愛して、隣人は愛さない。それでは神を愛したことにはなりません。その逆で、神を抜きに隣人だけ愛したても、聖書が語る愛とは離れていくのです。十字架は神と人とを結ぶ縦の線、人と人とを結ぶ横の線があって十字架になります。縦の線ばかりやたら長かったり、縦の線より横の線の方が長かったりすれば十字架としてアンバランスです。

色んな教会に行くと講壇の後ろに十字架がかけられていますが、わたしはしっくり来る形の十字架とあまり出会うことがなくて、会衆席に座っていると落ち着かないことが多いのです。そのような意味でも、名古屋教会の講壇に十字架がないことはよいことかもしれません。神の愛と、隣人愛の二つの線を結ぶ交点にイエス様がおられます。このイエス様を指し示すのが説教です。イエス様の十字架によって、律法は愛の律法として完成し、わたしたちを罪から解き放つのです。