ルカによる福音書2章13~20節
「天に栄光、地に平和」
クリスマスおめでとうございます。ここに集われたお一人お一人の上に、またラインの配信を聞いておられる方に、礼拝に思いを寄せつつ参加することができない方の上に、主のご降誕の恵みと祝福が豊かにありますことをお祈りいたします。
今日のテキストに、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」との天使の賛美が出てきます。主の天使に天の大群が加わっての賛美の歌です。わたしはここを読みながら、これまでは意識していなかった「天の大軍」に心惹かれました。新旧約聖書を通じて、ここにしか出てこない言葉です。
これと似た言葉は、イエス様が兵士たちに捕らえられようとするときですが、イエス様が「お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言われたところで出てきます。その時の天使の軍団には、明らかに武器を持って戦うというイメージを持ちます。しかし、ここでの天の大軍には戦いのイメージはありません。主の天使が指揮者となって、天使たちはオーケストラのようにいろんな楽器を手にしていたり、大聖歌隊が編成されている、そんなイメージをわたしは抱きます。
今は大きな声での賛美は控えていますが、クリスマスは、歌を歌いたくなる季節です。喜びの歌です。クリスマスの讃美歌を歌う時に、わたしたちの賛美の背後に、時を越えて天の大群の賛美があり、これに支えられているように思います。そして、その天の大軍には、わたしたちの信仰の先達たちも加わっている。そんな気がするのです。
今年は12月25日がクリスマス礼拝と重なりましたが、わたしが名古屋教会の牧師として迎えた最初のクリスマスも礼拝も12月25日でした。そのクリスマスから数えて、丸6年が経ちました。着任してからは6年と9か月になりますが、この間に25名の教会員の葬儀の司式をしました。中には聖歌隊の指導者や歌の大好きだった方がいたことも思い出されます。
ルカが伝えるクリスマスは賛美に満ちています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、シメオンの賛歌と、たくさんの賛歌があります。それらと比べると、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」との天使たちの賛歌は最も短いです。だからすぐに覚えることができます。羊飼いたちもこの賛歌を繰り返し歌いながら、ベツレヘムへと向かったのではないでしょうか。
わたしは不思議に思うことがあります。これがどれだけ短い賛美歌だといっても、天の大軍の賛美ですので、ベツレヘム近郊の野原いっぱいに、いやベツレヘムにまで、賛美の声は十分に届いたとしてもおかしくありません。でもこれを聞いたのは羊飼いだけでした。主の栄光が羊飼いを照らしたときもそう。羊飼いたちは非常に恐れたとあります。それほどの光であれば、他に気づいた人がいたとしても自然なことです。ところが、羊飼い以外に気づいた人は誰もいなかったのです。天の大軍の大合唱は、羊飼いにしか聞こえなかったのです。それは、とても不思議なことです。
でも、それが召命ということなのかもしれません。どういうことかといえば、100人1000人が同じ聖書の箇所を読んでも、ここにいる皆が同じ説教を聞き、同じ讃美歌を歌っても、その捉え方はすべて異なります。説教のことをいえば、今この説教を聞きながら、それぞれに自分が体験したこと、聞いたことを連想している筈です。さきほど話したことがきっかけとなって、今も天に召された方との思い出を振り返られている方がおられるかもしれません。でも、それがその人にとって、今年のクリスマス礼拝での出来事になるのです。だから誰一人同じ聞き方をしているはずがない。説教者としては、そんな話をしたつもりはなくても、この礼拝をきっかけして洗礼を受けようとか、牧師になってみたいと思うことだってあり得るのです。
羊飼いはここで召命を受けたのです。いと高きところにある神の栄光に照らされたのです。自分たちのことを、周りの人たちからはだらしないと思われているけれど、神様から見て御心に適う人であることを知ったのです。神はわたしたちを顧みてくださっている。だから嬉しくなって、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探しに出かけよう。そう決断したのです。
「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた」と書かれてあります。彼らは急いだのです。そして「探し当てた」と言うのですから、皆で必死になって探して、やっとの思いで見つけたに違いないのです。「探し当てた」という言葉はとても大事です。
神さまは羊飼いたちを選んで、救い主の誕生を知らせました。でも、救い主を彼らのもとに連れて行ったのではなく、彼らをベツレヘムに行かせ、救い主を探させた。それが神様のやり方なのです。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」短いフレーズですが、ここにはとても大きなメッセージが込められています。何よりも、神がおられるいと高き「天の栄光」と、わたしたちが暮らす「地の平和」とが響き合っている。この両者は、切っても切り離せない関係にあるのです。神がおられるところにこそ、平和があるのだと天使は告げています。いいかえれば、地の平和は、人間の思いだけでは打ち立てることはできない。神の栄光が地にもたらされねばならないということです。神が平和の源だからです。
平和は誰もが願うことです。イエス様も「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。この御言葉により、平和はただ祈るだけでなく、実現するもの、平和のために行動しなければ意味がない、そのような思いが頭をよぎります。でも、イエス様を救っていただかなければ立つことすらできないわたしたちのどこに「平和を実現する」力があるでしょうか。この世の中で、平和を実現する力を持てるとすれば、それは権力者以外にはいないのです。
たとえば、イエス様がお生まれになったときのローマ皇帝アウグストゥス。彼はパックス・ロマーナ、ローマの平和を樹立した名君です。但しそれは権力を盾にした平和です。住民登録の勅令を出せば、黙って従うしかない。恐ろしくて誰も歯向かうことはできないので争いが起こらない、そういう意味での平和です。
しかし、アウグストゥスにしても、その平和を打ち立てるために、どれだけ武力に物を言わせたでしょうか。戦争に戦争を重ねた、その戦争に勝利することで得た平和です。
ロシアとウクライナとの間の戦争も、ロシアの指導者はきっと、この戦争に勝って、相手を支配下に治めれば、自国は平和になると考えたのでしょう。徳川家康が260年続く太平の世を作ったといっても、その前は日本の歴史で唯一戦国時代と呼ばれる時代が続いていたのです。関ヶ原の戦や、二度の大阪の陣を勝ち抜いた。周りを黙らせる力を持つことで得た平和です。
もちろんイエス様が、そんなことを望んで「平和を実現する人々は、幸いである」と言われた筈がありません。もしそうであれば、エルサレムに入城したときに軍馬にまたがっていた筈です。でもイエス様は、ろばの子に乗って入城されました。あの徹底的にへりくだるお姿にこそ、平和の王の姿があるのです。
ところが、わたしたちはそれを見誤ってしまう。平和を実現しようと思うと、高ぶってしまうのです。個の力では実現できないから、同志を募ります。そうすると、応えることのできない人たち、考え方の異なる人たちとの分断が起こります。そこで傷つく人が生まれてしまう。それが地から生みだそうとする平和の限界なのです。
昨日のイブ礼拝で「平和へ」という写真絵本の朗読がありました。まさに平和を実現するために心がけるべき、素晴らしい言葉がたくさんありました。礼拝では写真を見ながら聞きましたが、言葉も映す方がよいかなと思いつつ、あのような形としました。ラインで聞かれた方も印象は違うと思いますが、写真絵本ですので、ほんとうは言葉と写真と両方見ながらできるとよかったと思います。そこはプロジェクターで投影することの限界でした。
皆さんの感想を聞いてから言う方がよいかもしれませんが、おそらく難しかったと思います。言葉が難しいわけではなく、読まれたようにすることが難しいのです。ただし、そのことは作者も翻訳者もよく分かっていたと思います。
それは「平和ってどんなもの?」という問いから始まりました。このようにすればと語りながら、「だったら、どうするの」、「でも、そんなにうまくいくかなあ」「ずっと、そうやっていられるかなあ」、「でも、また、けんかがはじまるんじゃないの」そんな問いに満ちているのです。これがいいと思いながら、作者も界があることを知っているのです。わたしたちにできることは、心のなかの平和を育てていくこと、そこしかない。
でも、ここまでが限界だと知ることも大事だと思います。限界点の手前で止めておくことが大事です。そうでないと、無理が生じてしまい、平和「シャローム」から遠ざかってしまうのです。
それでも、わたしたちは違う切り口を持っています。それは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天使の賛美に現わされています。今日の説教題を「天に栄光、地に平和」としましたが、大切なことは、両者は別物ではなく、一つだということです。地の平和を人間の力で実現するのは不可能です。それでも、天の栄光、いと高きところにある神の栄光に満ちた天においては、平和は確立されているのです。救い主は、天の平和が地にもたすために来てくださったのです。天の大軍は、神さまがなそうとされるその素晴らしい御業を告げているのです。
「地には平和、御心に適う人にあれ」と聞くと、御心に適う人でなければ平和は来ないと思われるかもしれません。でも、神の思いは、ご自分に似せて造られた人間が、主の御心に適う人になることなのです。その意味で、神はすべての人に平和を、救いはすべての人に与えたいと思われている。羊飼いはその代表として最初に選ばれたということです。羊飼いはその神の思いを感謝して受けとめ、まさに御心に適う行動をしました。
それが17節、羊飼いたちが、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあることです。救い主誕生の喜びを人々に知らせる、それこそが神の御心に適う行動でした。
神は救い主を、飼い葉桶に寝かされる乳飲み子として送られました。スーパーマンのようではなく、自分では何もできない、守らなければ生きていけない乳飲み子として世に来られました。赤ちゃんを見て、その子を憎らしいと思う人はいません。いとおしく思う筈です。皆がその心を大切にすれば、そこには平和があるはずです。神が無防備なままに独り子を送ってくださったことの意味が、そこにもあるような気がしています。